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2007-04-05



4月のテーマは「愛!」

沖縄「哲学道場」  4月のテーマ――「愛」とは何か(1)



  道場主によるオリエンテーション

沖縄映像センターの玉城社長が、ブログで「哲学道場」を開設したいというので、引き受けた。そして、道場を開設するに際し、最初に彼が提案したテーマが、「愛」である――彼はよっぽど愛に飢えているらしい。しかし、ここでいきなり「愛」についての道場主の哲学を開陳してもいいが、その前に、さしあたって「愛」を哲学的に考えるための見取り図ないし全体像を示しておいた方がよいだろう。というのも、われわれが日常的に用いている「愛」という言葉は、その意味も範囲も定義も、ほとんど無限に広く、あいまいだからだ。あいまいなままでは、哲学は始められない。

さて、われわれが「愛」ということばを使う時、それは大まかに言って三つの領域ないしレベルがあると思う。第一は、ちょっと生々しいが、「ねえ、今夜、愛し合う?」とか「最近、ちっとも愛してくれないのね!」のように、肉体的愛、すなわち性行為、セックスの意味で使われる場合である。セックスのような肉体的行為は、生理(学)的行為であって、「愛」がもつ精神的側面は含んでいない、つまり、セックスそのものは「愛」とは無関係だという人もいるかもしれない。しかし、セックス、もっと「学問的な」言い方をすれば、自己の遺伝子を残そうとしたり、肉体的快感を感じようとする身体的行為もまた、「愛」という語が適用できる人間の存在領域であることは、先のような言語習慣がわれわれの日常生活で実際に用いられ、意味了解=意思疎通されていることで、明瞭だ。そのことは、夫ないし妻の「努め」を果たさない者に、相手が(裁判所も)「離婚」を突きつけることでも明らかだし、その際に、「それでも君を愛している」と「プラトニック・ラブ(精神的愛)」を持ち出しても意味がないことは、誰でも理解するだろう。

「愛」の第二の領域は、対象(それは人間以外の動物や物であってもよい)に対する親密な感情に対して用いられる場合である。「私の愛するお母さん」、「愛車」、「愛玩動物=ペット」などの用法が、これにあたる。この「愛(いと)しく思う感情」は、対象との身体的関係において生じるものであるが、第一の領域が対象との直接的で性的な身体関係において成立したのと違って、もっと間接的で内面的ないし精神的な面を含む点が特徴である(いくら愛しているからといって、母親と「寝る」人は多くはないし、ペットやクルマとはいわんやをや)。しかし、そのメンタルな面は、次の第三のレベルとも異なって、知的ないし理論的・論理的なものではなく、もっとファジーで、感覚的なものである。言い換えれば、どうして自分はこの人や動物や物を愛するか、その理由は説明できないけれど、とにかくそう感じるのだ、というところに第二の「愛」は成立する。

最後の「愛」の領域は、知的なレベルで成立するものだ。これは、「博愛(人類愛・人間愛)」とか、「神の愛」、「博士の愛した数式」などが該当する。こうした「愛」のあり方は、いうまでもなく性的ではない。すべての人間と寝るなんてことは、不可能だ。「イエスと寝た女」という話は最近聞いたが、それは「イエスも人間だった」ということだ。キリスト教の神は超越者で絶対者、無限者だとされるから、そもそも神は身体をもたないはずである。また、この「知的愛」は感情・情念とは(関係はあるだろうが)基本的に異なるものである。「学問を愛する」のは感情のレベルで起こるのではなく、理性的に、理論として探求することの内で言えることだからだ。

ともかく、「愛」を哲学的に考える場合、このような概念のレベルの違いがあるということを常に意識していなければならない。その上で、各論、すなわちそれぞれのレベルでどうして(あるいはどのように)「愛」が成立するのか、そして、それぞれのレベルは互いにどのように関係しているのか(いないのか)が論じられなければならない。

ここでその各論に入る前に、どんな物事でも(ただし、人間に関係した物事に限られるが)上の三つのレベルがある、ということに少し立ち入っておこう。

なぜ人間に関した物事には、三つのレベル(要約すると、1.性的・本能的・生命的存在のレベル、2.感情・情念・情緒・情動のレベル、3.知的・理性的・理論的レベル)があるかというと、それは人間の脳の構造がそうなっているからである。まず、人間の活動は、それがどのような身体的なものであれ、内面的な感情であれ、欲求、願望、意識、思考、意志、理性、理念であれ、すべて脳に基づいて生み出されているのである(例外は、膝蓋腱反射のように、脊髄からの指令で作り出されるごく一部の身体的反射活動のみ。心臓の鼓動も体温調節も、みな脳の活動に依存している。こうした捉え方を、現代哲学では「心の唯物論」ないし「ニューロ・フィロソフィー」=ニューロンすなわち脳細胞に基づいて人間を理解しようとする哲学、という)。

この人間の脳は、何億年もの動物進化の過程で形成された人類以前の脳の構造を受け継ぎながら、400万年前から新たな進化をそれに継ぎ足した形で成り立っている。アメリカの著名な大脳生理学者、ポール・マクリーンはそうした人類の脳が三つの構造の複合されたものと見なし、「三位一体脳」と名づけた。そして、その三つの部分をそれぞれ、「反射脳(爬虫類脳ともいう)」、「情動脳(旧哺乳類脳ともいう)」、「理性脳」と呼んだ。先の、性的本能や基本的生命活動は「反射脳」に、感情・情動は「情動脳」に、知性は「理性脳」にそれぞれ対応しているのはいうまでもない。

さて、「愛」もまた、人間の脳のこうした三つの基本的部分で、それぞれに違った仕方で成り立っているのであり、そして同時に、それら三つが互いに影響しあい、絡み合いながら「愛」を成り立たせている。「愛」の問題の複雑さは――人間の問題はどんなものも同じだが――、こうした人間の脳の構造の複雑さに由来するのだ。哲学として問題を考えることは、そうした複雑な糸の絡みをていねいに解きほぐしていく作業を、概念や論理によって行なうことである。



1.性的・本能的活動としての「愛」



武田一博の哲学道場
武田一博 沖縄国際大学哲学教授


2007-03-19

沖縄「哲学道場」開設の巻

 
 哲学とは、言葉を使って物事をとことん考えることである。もちろん、言葉を使わない哲学も、世の中にはある。
 たとえば、禅宗の立場などがそうだ。それは、自我を無にして、つまり何も考えないで、宇宙の真理を直接体で直感的に感じとろうとする。
 それはそれで一つの哲学のやり方だが、私が長年、修行してきた西洋の哲学は、古来より、言葉・ロゴス・論理によって世界や人間の真理を突き止めようとする立場である。
 それは、言葉というより、もっと正確には、概念(厳密に定義されたことば)を使って、物事の本当のあり方を、矛盾なく、整合的に、そして、さまざまな学問を総動員しながら、体系的・総合的に解明し、説明し、理論として示そうとすることである。

 ところで、哲学するとは何を考えることなのか。答えは、「何でもよい」、だ。何についてだって、哲学することはできる。いや、自分が「哲学している」と言えるためには、世の中で起こっていることなら何についてだって、とことん考えなくちゃいけないのだ。
 そして、考えなくちゃいけないことは、山のようにある。
 ちなみに最近、私が考えていることは、
「なぜ自分は手洗いで洗濯しなければならないか」
「なぜ自動車をもつことは、人類にとって害といわねばならないか」
「なぜ私はマラソンを走らなければならないか」
などなどである。なぜそんな(愚にもつかない?)ことを考えているかて?
 それは、合成洗剤やクルマは環境汚染の元凶だからであり、走るといい考えが浮かぶからだ。
 今、地球は温暖化に向かっているからだ。
 ともかく、考えることを放棄すれば、そこで哲学は終わるのだ。

 でも、強いて「哲学固有のテーマ」があるとするなら、それは「人間とは何か」あるいは「人間が生きているとは、どういうことなのか」だろう。哲学者が昔から好む言い回しを使えば、「人間存在の根源的意味」を問う、というところだが、平たく言えば、「なぜ人間は愛するのか」、「人間は死んだらどうなるのだ」、「心とはいったいどのようなものなのか」、「コウモリであるとは、人間であることとどう違うことなのか」などなどを、それこそ死ぬまで考え続けることなのだ。

 そんな面倒くさいことは御免だ、と思う人がいてもいい。だが、考えるということは、人間のみに与えられた特権だ(いや、チンパンジーやゴリラだって、最近の動物行動学によれば、多少は考えているらしい)。
 というより、人間は考えまいとしても、否応なしに考える存在なのだ。眠れぬ夜には、誰でもそのことを実感するだろう。

 とすれば、考えようではないか。
 たとえその営みは、一円の得にならないとしても、あるいは、考えても考えても究極の答えは結局見つからないとしても、そこには何がしかの楽しみも喜びもあるはずだ。
 いや、一人で考えるのではあんまりつまらないとしても、みんなで考えるなら、おしゃべりの楽しさくらいはあるだろう。
 そして、無限に考えることがあるなら、無限におしゃべりの楽しさも味わえるはずだ。
 その中で、生きるヒントの一つでも見つかれば、もうけもんというものだ。



 道場主 武田 一博


2007-02-23

ようこそ

ここは、武田一博の哲学道場です。
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