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沖縄戦時に住民の避難壕としても使われた、海岸の海食洞窟群を訪れた日。
戦世よりさらに旧い歴史の痕跡に触れ、乱舞する蝶に時を忘れる。
光彩の中、ずいぶんと長い時間を過ごす。
正午を過ぎ、夏の日差しが空から降り注ぎ、海からも照り返す。
県道6号へと戻り、かつて、恩納村まで自転車で駆けた懐かしい道を歩く。
瀬名波と長浜の集落の境に、「真砂之塔」がある。
1959年6月建立。
104柱合祀。
あの日は往きも帰りも通り過ぎていた。
今日はここまで歩く。
慰霊の日に手向けられたのであろうか。
茎葉の枯れた献花の花弁だけが、夏の光の中で色を存える。
「こんな海と暮らしておられたのですか」
木陰に佇んで色彩を取り戻し、名を刻まれた方々と向き合う。

ずいぶん長い時間を過ごした朝に
振り返り 振り返り
最後に黙礼する
風に揺れて 葉擦れ雨粒 次は夏







今年の12月11日に書きかけたこと。
2013-12-11 それでも、海と
いつも心の中にありながら、なかなか言葉にはできずにいます。
歩きながら、その場ではいつも、確たるものとして感じていながら、
かたちにはならない想い。
言葉の呪縛や頭の中だけの観念に捉われぬように、
敢えて、かたちにせずともよいのかもしれません。
戦跡、戦の記憶の刻まれた場所、だれかが傷ついたであろう場所。
そんな場所を歩きながら、そんな歴史と向き合いながらも、
その場所を「美しく記録したい」と思うようになりました。
意識せずとも、以前から、そんな写真を撮ってきたように思います。
言うまでもなく、戦は醜く、惨いものであり、
歴史の現場に立つことで、その想いを一層、強くします。
その想いをまた、だれかに伝えたいと思っています。
戦争への憎悪、恐怖、それが戦争の抑止力。
それでもなお、「美しく記録したい」。
理由のいくつかを言葉にすることはできるのですが、
今日は、以下の拙文を記すにとどめます。
今年の11月に、「ひめゆり平和祈念資料館」を5年ぶりに訪れた際、
「来館者感想文」の用紙に書いたものです。
論旨が飛躍したり、拡散しているところもありますが、敢えてそのままで。
「歩きながら、その場ではいつも、確たるものとして感じている」、
その想いを書き記したものとして。
「美しく記録したい」
その理由のひとつが、最後の部分で、言葉になっているかと思います。
目の前に広がる美しく静かな「沖縄の今」。
美しさと静けさが、また新たな喧騒に乱されている、そんな年の瀬に。
それでも、こうやって出会えた美しさに感謝をし、
拠りどころとして、力として、また、新たな年へ。

「2008年の春以来、二度目の来館です。
その間、5年間、何度も沖縄を訪れ、ひめゆり学徒の皆さまや沖縄戦の歴史の刻まれた場所をできる限り、自分の足で歩かせていただきました。
初めの頃は、資料や証言で知った(知ったつもりになっていた)往時の惨状と、目の前に広がる美しく静かな「沖縄の今」との隔絶に戸惑いを覚えることも多々ありました。
祈りの言葉や、自分が今、何のためにその場所を訪れたのか、そのようなことが分からなくなることもありました。
やがて、自分の中に「語られ部(かたられべ)」という言葉が浮かびました。「語り部」の皆さまの証言を通じて、たしかに生まれ、非業の最期を遂げられた犠牲者の皆さまのことを知り、また、最期の瞬間だけではなく、そこに至るまでの恐怖、絶望、悲嘆、葛藤・・・そんな「人間としての当たり前の感情」を、自分の心とも対比させながら想うようになりました。
悲しい最期を遂げられたことだけではなく、人として生まれ、日々を生き、人間らしい感情を持っておられた皆さまの、一人ひとりのお顔を想うようになりました。
そうすることで、戦争への抑止の想いはますます強くなります。
そして、訪れた土地を辞去するとき、最後に、こんなことを言葉にします。
「せめて、楽しかった時代、人としての喜びを抱いたときの記憶に包まれて、安らかにお眠り下さい」と。同じ人間として。
末筆となりましたが、語り部の皆さまの健やかで穏やかな日々をお祈り申し上げます。」

そこに身を置いて 感じて 考える
そんな静寂が この夏の日には ありました
年間約4万人以上が平和学習で利用する
そんなことを今日 知りました
「壕で地域活性化 八重瀬町と具志頭区 管理協定」
(2013.6.28付 琉球新報web版)
2014-05-17
隣り合う歴史
2014-04-14
真砂之塔
沖縄戦時に住民の避難壕としても使われた、海岸の海食洞窟群を訪れた日。
戦世よりさらに旧い歴史の痕跡に触れ、乱舞する蝶に時を忘れる。
光彩の中、ずいぶんと長い時間を過ごす。
正午を過ぎ、夏の日差しが空から降り注ぎ、海からも照り返す。
県道6号へと戻り、かつて、恩納村まで自転車で駆けた懐かしい道を歩く。
瀬名波と長浜の集落の境に、「真砂之塔」がある。
1959年6月建立。
104柱合祀。
あの日は往きも帰りも通り過ぎていた。
今日はここまで歩く。
慰霊の日に手向けられたのであろうか。
茎葉の枯れた献花の花弁だけが、夏の光の中で色を存える。
「こんな海と暮らしておられたのですか」
木陰に佇んで色彩を取り戻し、名を刻まれた方々と向き合う。
-2013/6/28 読谷村 長浜-
2014-04-07
夜明け 2014春・沖縄・8日目

ずいぶん長い時間を過ごした朝に
振り返り 振り返り
最後に黙礼する
風に揺れて 葉擦れ雨粒 次は夏
-2014/3/19 平和の礎(糸満市 摩文仁)-
2013-12-31
ありがとう沖縄 2013 FINAL







今年の12月11日に書きかけたこと。
2013-12-11 それでも、海と
いつも心の中にありながら、なかなか言葉にはできずにいます。
歩きながら、その場ではいつも、確たるものとして感じていながら、
かたちにはならない想い。
言葉の呪縛や頭の中だけの観念に捉われぬように、
敢えて、かたちにせずともよいのかもしれません。
戦跡、戦の記憶の刻まれた場所、だれかが傷ついたであろう場所。
そんな場所を歩きながら、そんな歴史と向き合いながらも、
その場所を「美しく記録したい」と思うようになりました。
意識せずとも、以前から、そんな写真を撮ってきたように思います。
言うまでもなく、戦は醜く、惨いものであり、
歴史の現場に立つことで、その想いを一層、強くします。
その想いをまた、だれかに伝えたいと思っています。
戦争への憎悪、恐怖、それが戦争の抑止力。
それでもなお、「美しく記録したい」。
理由のいくつかを言葉にすることはできるのですが、
今日は、以下の拙文を記すにとどめます。
今年の11月に、「ひめゆり平和祈念資料館」を5年ぶりに訪れた際、
「来館者感想文」の用紙に書いたものです。
論旨が飛躍したり、拡散しているところもありますが、敢えてそのままで。
「歩きながら、その場ではいつも、確たるものとして感じている」、
その想いを書き記したものとして。
「美しく記録したい」
その理由のひとつが、最後の部分で、言葉になっているかと思います。
目の前に広がる美しく静かな「沖縄の今」。
美しさと静けさが、また新たな喧騒に乱されている、そんな年の瀬に。
それでも、こうやって出会えた美しさに感謝をし、
拠りどころとして、力として、また、新たな年へ。

「2008年の春以来、二度目の来館です。
その間、5年間、何度も沖縄を訪れ、ひめゆり学徒の皆さまや沖縄戦の歴史の刻まれた場所をできる限り、自分の足で歩かせていただきました。
初めの頃は、資料や証言で知った(知ったつもりになっていた)往時の惨状と、目の前に広がる美しく静かな「沖縄の今」との隔絶に戸惑いを覚えることも多々ありました。
祈りの言葉や、自分が今、何のためにその場所を訪れたのか、そのようなことが分からなくなることもありました。
やがて、自分の中に「語られ部(かたられべ)」という言葉が浮かびました。「語り部」の皆さまの証言を通じて、たしかに生まれ、非業の最期を遂げられた犠牲者の皆さまのことを知り、また、最期の瞬間だけではなく、そこに至るまでの恐怖、絶望、悲嘆、葛藤・・・そんな「人間としての当たり前の感情」を、自分の心とも対比させながら想うようになりました。
悲しい最期を遂げられたことだけではなく、人として生まれ、日々を生き、人間らしい感情を持っておられた皆さまの、一人ひとりのお顔を想うようになりました。
そうすることで、戦争への抑止の想いはますます強くなります。
そして、訪れた土地を辞去するとき、最後に、こんなことを言葉にします。
「せめて、楽しかった時代、人としての喜びを抱いたときの記憶に包まれて、安らかにお眠り下さい」と。同じ人間として。
末筆となりましたが、語り部の皆さまの健やかで穏やかな日々をお祈り申し上げます。」
2013-12-19
クラシンウジョウの壕

そこに身を置いて 感じて 考える
そんな静寂が この夏の日には ありました
年間約4万人以上が平和学習で利用する
そんなことを今日 知りました
「壕で地域活性化 八重瀬町と具志頭区 管理協定」
(2013.6.28付 琉球新報web版)
-2013/6/30 八重瀬町 具志頭-