2010-06-22

二人の語り部(後)

  
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    眼下のグラウンドの照明塔に、いつ灯りが点ってもおかしくないような、
    三月の初めの、曇天の夕暮れであった。

    南風原町黄金森の頂上辺りに展望台があることは、
    この日、約一年ぶりにこの地を訪れて、初めて気がついた。
    
    南風原文化センターは新築移転のため、すでに、元あった場所は更地になっていた。
    陸軍病院壕の入壕口は、ガラス扉が閉じられていた。
    そんな場所を、静かに巡る。
    そういう静かな時間が待っていることを承知で、この地を再び、訪れた。

    心に深く刻まれたこの黄金森の、周囲の風景を、今現在の風景を、
    もう一度、見ておきたかった。
    そうすることにより、壕内に入り、文化センターで学んだ一年前の経験を、
    自分自身の中で醸成できるような気がした。

    南風原の平和な今と、この地に傷跡を残した歴史とを対置してみたかった。   





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    階段を登りながら、一歩一歩が重く感じられた。

    なぜなら、今、踏みしめている階段の真下に、
    一年前、その暗闇の中を歩いた病院壕があるという意識が心から離れなかったから。

    しかし、こうも考える。
    戦争の犠牲者を悼むならば、どの土地を歩くのも同じこと。
    想いを突き詰めれば、どの土地も歩けないということになる。
    真新しい慰霊碑だけがある土地よりも、何もない路傍に歴史が眠っているかもしれない。
    どの土地でも、どの路でも、大きな視点で、歴史を、事実を忘れないでいること。    
    そして、平和な時を紡いでいく。
    縁があれば、思い出し、手を合わせる。   


    そんなことを考えながら、一歩一歩、階段を登る。


    それでも、また別の意味で、
    目の当たりにした、すぐ真下にある陸軍病院壕を思い出す。
    沖縄各地にある自然壕とは違う、軟弱な地盤を手掘りで掘り進めた人工の壕が、
    その上に広がる森を歩く一歩一歩により、
    少しずつ、確実に劣化し、崩れていくという想いにも囚われる。


    そして、もうひとつの逡巡。
    その背がすぐ目の前に迫るほどに追いついてしまった、先を歩いておられたご老人を、
    追い越すべきか、その穏やかな足取りに付き随うべきか、歩みを緩めながら考える。

    ご老人の方も、そんな私の気配に気づかれたようだった。
    軽く挨拶を交わして、先に行かせていただくことにした。


    展望台らしいものがあるわけではなく、その先が行き止まりになっていることで、
    やがて、そこが頂上であることがわかる。

    思いのほか早く、先ほどのご老人も、ゆっくりと頂上に到達された。
    私とまったく同じように、少し先の、行き止まりになっている茂みを見て、
    「おや」という表情で引き返して来られる。

  


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    自然と会話が始まる。

    私が旅行者で、約一年前にもこの地を訪れたこと、
    その一番の目的が陸軍病院壕であったことを、足元に視線を落としながら話す。

     「なので、今、ここに立っているのも、ちょっと、複雑な心境でして」

    階段を登りながらずっと心にあったことを、率直に口にする。
    散歩の同士として目に映る、目の前のご老人の年齢、時代、表情には思いは及ばない。

    そして、つい数日前には、泡瀬の海を見てきたこと、
    明日にでも、中城村のR329を縦断しようと思っていることなどを、
    東海岸に視線を巡らせながら話す。


    ご老人はそんな私の話を聞き終えた後、遠くに見える丘を指差しながら、
    柔和な表情で話し始めた。

     「ウンタマギルーはご存知ですかな?」

    私の、まったく心当たりがないという困惑と、好奇心とが入り混じった表情を見て取ったのか、
    ご老人は、運玉森に住んでいたという義賊の昔話を語ってくださる。

     「久高島には行かれましたかな?」

    二人の視線は運玉森から、やや南東方向へ移動する。
    私は、いつかは訪れてみたいと、イラブー汁は好きであるなどと答える。

     「下の高速道路は、たしか、今日から無料になったのではなかったかな?」

    二人の視線は、さらに南へ南へと、高架道に沿って移動する。



    丘の上で二人、暮れ行く沖縄のパノラマを楽しむ。

    眼下のグラウンドや野球場から聞こえる声、高速道を行き交う車の音、
    その他、数多くの生活の音が、すべて遠くに、一呼吸置いたかのように届いてくる。
    街に灯りが点りはじめる。

    時計の針は18時になろうとしていた。


     「そろそろ、下りますかな」

     「お住まいは、このお近くですか?」

    私からの問いかけに対するご老人のお答えを、不覚にも思い出せない。
    この後につづいた会話の、衝撃の大きさに。


     「それでは、私は喜屋武の方に下ります。いろいろ、ありがとうございました」

    二人の視線が最も南を向いた時だった。

     「私は・・・、米須で捕虜になりました」

     「・・・・?」

     「17歳の時でした」

     「そうでしたか・・・、南部まで。たいへんなご苦労だったと聞いています」


    その日、「対馬丸記念館」を訪れていた私は、
    家族を、幼い兄弟を守らねばならない、そんな青年の姿を思い浮かべた。
    疎開が許された年齢と、それを上回る17歳という年齢とに、
    すぐには想いを致すことができなかった。

    ご老人は避難民として戦火を逃れ、米須へと至り、命を継いだのだと思った。


     「同級生たちは・・・、摩文仁の『健児の塔』に眠っています」  

     「・・・・?」

     「ランドセルみたいにですね、背中に爆雷を背負って、
      戦車に突っ込んでいった者もおりました。私は・・・、生き残ってしまいました・・・」


    ここでようやく、私は、目の前のご老人が学徒兵として、
    避難民ではなく、兵士として、軍の最前線の17歳の兵士として、
    戦場にいたという事実に気づいた。
    
    一年前の春、「魂魄の塔」を訪れた時、すぐ近くの「開南健児の塔」を見ていた。
    カメラに収めた「一中健児の塔」の碑文を儀保駅のホームで読みながら、
    膝の上の「ぎぼまんじゅう」の包みに落涙したこともあった。  

    様々なことが頭を駆け巡り、言葉が出なかった。


     「米須で・・・、捕虜に・・・」
        
    それだけを口にして、絶句した。

    
    二人の視線は交わらず、ご老人は空を見ていた。





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    階段は、しばらく下ったところで二手に分かれる。
    私は再度、喜屋武の方へ向かうと告げる。
    ご老人はもう一方の道を下ると言う。

    私は改めて、丁重にお礼を述べたかったが、
    ご老人は既に、穏やかな散歩の表情に戻っておられた。
    いや、米須の話を口にされた時でさえ、穏やかだったように見えた。

    

    目を見て話すことは、人と人との交わりの中で大切なことである。
    しかし、時として、心の深いところからの言葉は、
    視線を交えずに、語り、受け止めることが、お互いの隔たりを穏やかに埋めるのかもしれない。
    と同時に、このご老人のやさしさだったのだと、そう思った。


    忘れることのできない「語り部」の、ずっと見送った後ろ姿だけを、今でも思い出す。


 

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-2009/3/1 南風原町 黄金森-



    この日のことは、2009年4月に、「入学式の頃に...」と題した小文でも紹介していますが、
    今回、慰霊の日を前に、「語り部」となってくださったご老人との邂逅に焦点を当てて、
    加筆、再掲いたしました。

  
 
category2009 沖縄旅日記① 春  time23:57  authorKohagura Erio 

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