2010-06-12

石の記憶

 
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  ずいぶんとくたびれて、しわだらけになった1万分の1道路地図のコピーには、
  赤いボールペンで、「金城商店の角、右折」という書き込みがある。
  そのコピーを大切に携えて、翌年の春も南風原町を歩いた。
  そして、一年半が経った夏の日、ようやく、その書き込みが示す津嘉山(つかざん)を訪れる。



  南風原町が「十字路」であるということは、今現在の地図や街の様子から知ったのではない。

  3万分の1が基本の沖縄県の道路地図の中でも、
  南風原町の中心部は1万分の1の拡大図が掲載されている。
  その地図からも、国場、仲井真、上間、兼城などがいずれも主要な十字路を形成しており、
  交通の要衝であることが見て取れる。


  しかし、十字路は、十字路であるがゆえに歴史の中で・・・。


  2008年の春、沖縄を初めて歩く前に買ったこの道路地図で南風原の頁を開いた時、
  沖縄戦の日々を追ったNHKのドキュメンタリー番組で知った、
  「死の十字路」という言葉を、どの場所に重ね合わせればいいのか、戸惑う。
  藤木勇人さんの一人芝居がインターリュードとして挿入されなければ、
  二日連続で見るのには心に鈍痛を伴うような番組だった。
  しかし、見なければならないと思った。自らの無知を埋め合わせるためにも。

  その多くが非戦闘員である避難民であろうと、
  人が多く集まる場所を狙って艦砲を撃ち込み、銃爆撃を加える。
  優勢な国家の戦略的非情と、劣勢の渦中に非戦闘員を巻き込んだ国家の非情。
  その両方の非情に打ちのめされ続けた「死の十字路」。




  初めての沖縄で、四日間滞在した糸満から那覇へ入り、
  翌日、南風原文化センターと沖縄陸軍病院南風原壕群20号を訪れた。
  最寄りのバス停ではなく、兼城十字路でバスを降りたのは、
  その「十字路」の今をこの目で見て、
  たとえわずかな距離であっても、そこから南へ向かって歩いてみようと思ったからだった。

  街は発展し、さらなる発展の息吹も感じる。
  南風原小学校が見えてきて初めて、「南風原国民学校」という言葉とともに、
  歴史に想いを巡らす。



  その一日の、南風原文化センターでのこと、陸軍病院壕でのことは、これまでに綴ってきた。
  いずれも、沖縄を旅する上での「十字路」となるような貴重な邂逅だった。
  翌年の春は、ただ、この丘からの風景を見ることだけを目的に、
  旧文化センターがあった更地の前に立ち、黄金森の展望台に登ったこともあった。




  沖縄を歩くといつも、旅の前に調べたことの数倍の、財産と宿題を得て帰ることになる。
  その宿題のひとつが、南風原町津嘉山の、民家の石塀に残された弾痕であった。



  初めての南風原文化センターで、長い時間を割いてお話を聞かせてくださった職員さんから、
  その石塀へ至る目印として教えていただいた記憶が、
  「金城商店の角、右折」という書き込みだった。

  ただ、その金城商店が今も開いているのか、あるいは、すでに店を閉じてしまっているのか、
  そういう話も伺ったような気もしたのだが、その記憶は薄らいでしまっていた。
  汗で擦り切れた地図のコピーの表面と同じように。




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道中の光景に、この年の1月の、糸満市小波蔵での不発弾爆発事故の残像が蘇えった



  しかし、一年半の歳月は、その場所を訪れる前に、宿題と向き合うために、
  必要な時間だったのかもしれない。

  この場所で、水平方向に銃弾、砲弾が飛び交ったのは、
  沖縄戦という時間の中のどの時点であったのか。
  なぜこの場所が、市街戦、あるいは、掃討戦の戦場となったのか。
  その時、南風原から南へ向かった人々の行く末を含め、南部で何が起こっていたのか。

  それらを知るために、知識も必要となってくる。
  時間軸と地勢図を常に念頭に置きながら、証言や記録の断片と向き合う。


  そこへ、新たに、六月の熱暑を自らの身体に刻む。


  この時も、最寄りの津嘉山バス停へ向かうことはせずに、
  那覇市真地から一日橋を経て、津嘉山へと向かう。
  橋脚に支えられたバイパスができる前、どのような道を辿って、この傾斜を下ったのだろうか。
  一日橋という地名は戦前の史料の中で頻繁に目にする。

  途中、大規模な工事が行われており、地図に載っている道が寸断されていた。
  迂回路に入ったことで、完全に自分の居場所を見失った。
  地図で見る以上に津嘉山の住宅地の通りは入り組んでおり、
  地図に記載されていない小路もあるようだった。
  細道に重なり合う軒先や樹木の陰になり、高津嘉山の位置もよく分からない。
  ただ、太陽だけを目印に南へと向かえば、
  やがて、県道128号線に出ることだけは分かる。


  あえて急がずに、旅行者の分をわきまえつつ、町に流れる時間に身を委ねる。

  現在に溶け込めば、暑ささえ忘れることができれば、心地よいそぞろ歩きで、
  戦世の昔を思えば、暑さをも追体験の一つと思えば、一歩一歩が心を揺らす。



  弾痕が残る石塀は、今、目指しているその場所だけであるとしても、
  その周囲も、同じ歴史を見てきたことは想像に難くない。

  「艦砲で破砕されなかったからこそ、その石塀は、白兵戦の証言者という役割を
   今日まで果たしてきたのかもしれない」

  そんなことも考える。

  「偶然が、石塀や瓦やガジュマルのその後を左右したように、人の命や運命も左右したのか」

  「いや、偶然に見えても、やはり、それは、眼に見えない不特定の他者への害意が起こしたもの」

  目に入ってくる穏やかな情景とは相容れない想念が、頭の中で混濁する。




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  やがて、時間が止まったかのような視界の彼方に、車の往来が見えてくる。



  金城商店は、その看板からは長くアメリカ世だった昭和の香りを、
  屋根の上の真新しいシーサーからは平成の香りを漂わせながら、静かに佇んでいた。

  しばし木陰で休んでから、歩いてきた通りの一本隣の通りを、太陽を背に北へと向かう。

  目指した場所、石塀にはすぐに辿り着いた。




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  弾痕の作る陰影は、夏の陽光に照らされる周囲の風景の中で、十分すぎるほどに深く、
  最深部から放射線状に歪な円を描いていた。
  それら、大小さまざまな円の周囲には、より鋭利な、深い刺し傷のような空洞が点在する。

  炸裂する敵意と、貫通する敵意は、石塀に向けてではなく、人が人に向けて放ったもの。
  一人の人間としてそれを受けた瞬間に、戦闘員と非戦闘員という区別は意味を失う。
  戦闘の只中に残らざるを得なかった、逃げることもできなかった弱者を想う。



  スズメたちが梢から電線へと飛び移り、また、舞い戻る。



  数多くの戦跡と違って、この場所で繰り広げられた相克の記録を目にしたことはなく、
  ただ、物言わぬ質感と対峙するしかなかった。

  静穏な今の生活の営まれている一角で、
  訪れる者が、静かに何かを感じ取り、想うしかない。




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  静かなまま、大切に残していくべき場所であり、時間の流れ。

  周囲の風景や生活は、しかし、時に風化よりも早く、移ろっているという。






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  初めての沖縄で、初めての戦跡、八重瀬岳麓の「白梅学徒看護隊之壕」に向かった時、
  早暁、東風平経由・糸満行のバスで津嘉山を通過していた。
  あの雨の朝とは違って、空は青く、乾いた道は白く反照していた。
    

-2009/6/29 南風原町 津嘉山-


  ■南風原文化センター(旧文化センター)の記憶
  ■沖縄陸軍病院南風原壕群20号の記憶

 
category2009 沖縄旅日記② 夏  time23:59  authorKohagura Erio 

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