2010-02-05

宜野湾の朝青龍

 
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南方の樹が 北風と太陽の中で踊る 台風と違い 乾いた青空の下で 真冬の福岡


 
  太陽のような男が 北風のように去っていった
  太陽のような温かい赦しを受けられず 北風が吹きつけるような厳しい裁きを受けた
  太陽が北風に勝った あの童話とは逆に



 21インチのブラウン管テレビで見る、土俵の上の朝青龍が好きだった。
 豪放な格闘家として好きだった。奔放な人間として好きだった。
 華麗にして力強い、闘争心溢れる勝負が、ただただ、爽快だった。
 型にはまらない感情表現が、痛快だった

 正と邪、善と悪、美と醜、ましてや、相撲道や「品格」を論ずるつもりはないし、
 その資格もないと自覚している。
 それらは、有識者や、評論家や、好事家や、道徳家や、マスコミに任せておく。

 巷間漏れ聞こえてくる、土俵外の朝青龍には興味はなかった。
 それらは、ワイドショーや、週刊誌や、スポーツ新聞に任せておいた。

 という、好き勝手な言い分である。
 こういう相撲ファンや取り巻きこそが、彼を「増長」させてしまった、
 そんな論調が多数を占め、歴史の評価として定まっていくのだろうか。

 だが、ひとつだけ。
 もし、最後の暴力事件が「事実」であるならば、
 朝青龍を愛する私としても、ここに至った結末に異論はない。
 それなりの地位にある社会人であれば、だれでも同じ顛末となって然る事案と考える。
 私なりの正と邪、善と悪、美と醜の感覚に当てはめてみても。

 ただ、それはあくまでも、「もし」の話であって、
 「真実」が何であったのかは、土俵外の朝青龍に興味のなかった私には、
 やはり、わからない。

  「本場所中に、それも未明まで、人目に付くところで飲んでちゃだめだろう」

 私の中の、そして、私が横綱に求める「品格」とは、その程度のものだ。
 これまでの「不祥事」とされてきた数々のお騒がせは、他者を傷つけなかったという限りにおいて、
 私の中では豪放磊落、自由奔放の枠内に収まる話として記憶される。

 そして、
 
  「人間らしい、たくさんの無様な姿も見せてくれて、ありがとう」



 日本の国技。
 その頂点を極めた者に求められる「品格」。


 日本の国技である大相撲が、今の日本の写し鏡だとするならば、
 数々の不祥事や、旧態然としたしがらみが白日の下に出てきている昨今の相撲界は、
 まことにもって同時代性を帯びた、ありのままをあからさまに見せてくれる世界だと思う。

 一方で、横綱審議委員会が錦の御旗とする「品格」なるものは、
 偶像化された横綱にとどまらず、相撲界で続発する不祥事や、時代遅れとなった慣習に対して、
 現実的な「規範」として機能してこそ、その存在意義があると思う。いや、機能せねばならない。
 理念だけを声高に叫んで、現実から遊離している観念では意味がない。
 正と邪、善と悪、美と醜を包含する現実を直視して。
 現実とがっぷり四つに組んで。

 相撲界は今回、より深い懐を持ち、生身の人間をありのままを直視した、
 そんな「品格」像を描いていく試金石となりうる、
 多面性を発露しつづけた稀有な原石を失ったように思う。




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 朝青龍の写真が、たった一枚だけ、手元にある。
 宜野湾市の佐真下公園で、偶然に撮影した。
 三場所ぶりに出場した初場所で復活優勝し、物議を醸した、例のガッツポーズのシーン。

 撮影したのは昨年の2月の終わりのことだった。
 場所も、時間も、まったく見当違いな場面に突如、朝青龍が現れたことに、
 唖然とし、やがて、失笑したことをはっきりと覚えている。