2009-06-18

アメリカ

2009年6月7日付 朝日新聞西部本社版 「声」欄 かたえくぼ




 初めてのアメリカ体験は、4歳か5歳の頃に見た「トムとジェリー」。
 ハンバーガー、顔の映らない家政婦さん、大きな家と見たことのない家電製品、遠足じゃなくてピクニック、穴あきチーズ。
 へんてこりんなペンがへんてこりんな文字を ――ケーキ屋さんで「おたんじょうび おめでとう」と書いてもらった時みたいに―― 書くと、ひとつのお話が終わる。
 夕方、茶の間、一台だけのテレビ。おじいちゃんが相撲を見る時には、ボクは「トムとジェリー」をがまんした。おじいちゃんが大好きだったから。それでも、ある日突然に始まる相撲中継が、いつ始まって、いつ終わるのか、ハラハラ、ドキドキしていた。
 「ヒョーショージョー!」と言う変なおじさんが出てきたら、これで相撲が終わるんだと、ある時、気がついた。
 母親にせがんで、一度だけ、ハンバーガーというものを食べたような記憶もある。まだ、ファスト・フード店なんてない時代。路面電車に乗って行く、デパートのレストランだったか。でも、屋上でいつも食べていた「焼うどん」の方が美味しいと思ったから、その一度だけで気が済んだような気がする。


 どちらかというと大人しい子だった小学校1年のボクに、おじいちゃんは「プロレスでも見ろ」と言った。
 毎週金曜日の夜8時、ボクはテレビの前に釘付けになった。通学路に貼ってあった新日本プロレスの興行のポスターを見ながら、レスラー全員の名前や必殺技を友だちに説いた。おじいちゃんをはじめ、家族みんなが呆れるほど熱中した。
 アントニオ猪木、坂口征二、ストロング小林、星野勘太郎たちのライバルはみんな外国人だった。
 人間風車のビル・ロビンソン、アンドレ・ザ・ジャイアント、ジョニー・パワーズ、ペドロ・モラレス、そして、タイガー・ジェット・シン。
 "インドの狂える虎"と呼ばれたシン以外は、みんなアメリカ人だと思っていた。世界にいくつ、どんな国があるのか、まだ全然、知らなかったし。


 4番・田淵の前後を打つのが、ラインバックとブリーデン。大好きなアメリカ人だった。阪神の球団史上、数少ない、頼れる助っ人だった。日本シリーズで巨人をやっつけてくれた、阪急のウィリアムスとマルカーノにも感謝しているけど。
 小学校3年生、この年のプロ野球選手名鑑が実家にあるはずなんだけど見つからない。ただ、巨人の選手全員の顔に完膚なきまでに落書きをしているので、史料としての価値は乏しいと思う。


 毎朝、新聞が届くのが怖かった夏。ヒロシマ、ナガサキの季節が近づくと、一面に特集記事が連載された。
 「はだしのゲン」の、それもかなり凄惨な一コマが、連日、掲載された。いやでも目に入る。本当に怖かった。残像が目に焼きついた。
 戦後30余年という時代、キューバ危機から15年。今、戦後64年という視点に立って振り返ると、核の記憶が生々しかった往時の空気が分かるような気がする。
 8月6日は、平和授業で登校日だった。原爆の話だけでなく、人間魚雷・回天で出撃命令を受けながらも母艦の不具合などで生還した先生の話なども聞いた。
 アメリカと戦争をした・・・。それでも、実感は湧かなかった、小学校4年生の頃。


 中学校1年生の秋、NHKが30分の短いTV番組を放送した。「Aurex Jazz Festival ' 81」。この番組を目にしたことが、その後の私の人生を大きく変えた。
 ライオネル・ハンプトンという人が、タキシード姿に滝のような汗で、鉄琴のような楽器を叩いていた。楽しくて楽しくて仕方がないという喜びに溢れた表情と、年齢を感じさせないショーマンシップ。ピアノも弾けば、ドラムも叩く、マイクも握って歌もうたう。そして、見たことのない楽器の一群が繰り出す、波打つようなメロディとリズム。
 理屈抜きに、こっちまで楽しくなった。それまで、音楽に合わせて体でリズムを取るなんて、かっこ悪いと斜に構えていたのに、自然と体が揺れた。齢70を越えたおっさん(ハンプトン翁)が、まぶしいほどかっこいいと思った。
 この日、初めて出会った「ジャズ」という音楽を、今日まで、聴かなかった日はほとんどない。


 大学時代の親友の彼女が、1年間、アメリカに留学した。親友は毎日、日本時間の23時に、国際電話をかけるという約束をしたらしい。
 インターネットも電子メールもない時代、しかも、国際電話の料金は今と比べ物にならないくらい高かった時代。それでも親友は、見たことのない、国際通話専用のテレホンカードを持って、国際電話もかけられる電話ボックスへと日参した。
 そんな事情を承知の上で、私たち悪友は、その親友を飲みに誘う。学生だけが集う居酒屋には、カウンターに一台だけ、ピンク色の公衆電話。時計を気にし始める親友。「ちょっと、出てくる」という野暮な中座を、冷酷にも許さない。
 時計が23時を回った。衆目の監視の中、親友はやむなく、ピンク色の公衆電話に向かう。冷酷な悪友たちは、しかし、ありったけの小銭を彼の元に集める。
 一言一句に耳をそばだて、歓声を上げて冷やかしにかかる悪友たち。
 「え、あぁ・・・、今、ちょっと、ゼミが終わった後、軽く飲んでて・・・」
 見え透いた嘘はきっと、国際電話会社の海底ケーブルを通って、アメリカで見透かされているはず。
 しかし、友情の証であった小銭は、見る見るうちに消えていく。私たちの手持ちの小銭も底をついた。
 すると、そんな様子を見ていて、事情を察したであろう、同じカウンターに座る酔客から、続々と愛のカンパが寄せられた。
 感動的な出来事だった。
 同時に、歓声の輪は大きく広がり、親友の嘘をかき消すほど騒がしく、アメリカへと届いた・・・だろう。


 22歳、夏、長崎。
 社会人一年生の私の元へ、夏休み、家族が遊びに来た。私は、お気に入りの I・W ハーパーを買ってきた。父と飲み明かすつもりだった。
 私が幼い頃から、父の晩酌はいつも、瓶のキリンラガーだった。バーボンを一緒に飲むのはこれが初めてだった。しかし、ボトルの中身はそれほど、減らなかった。
 そして、これが、一緒に飲んだ最後の酒になってしまった。
 そのボトルをいつ、どうやって空にしたのか、覚えていない。記憶がなくなるような飲み方をしたのかもしれない。ただ、空になったボトルは、今も手元にある。
 時折、外で、I・W ハーパーの香りが恋しくなって、口にすることがある。
 だが、家で飲むことは、ない。たぶん、これからも。


 20代。"喪の作業"の途上にあって、書物の中でだけ、藤原新也氏の体験を通してだけであったが、"印度を放浪"する。
 その中で、ガンジスとディズニーランドを対置する形でアメリカを見つめる視座を得る。インドに親和感を、アメリカに距離感を覚える。日本の中のアメリカ的なものと、アジア的なものを峻別して見るようになる。
 それでも、国境や文化を超越したパット・メセニーの音楽は、いつも頭の中を駆け巡っていた。


 30歳。結婚披露宴なんて面倒だと思っていたはずなのに、いざ、企画を始めると自作自演の過剰演出にのめり込んでしまった。
 徹頭徹尾、ジャズを流す。和装でもジャズ。それが基本コンセプト。
 もうひとつ。90歳になった祖父に最大限の感謝を贈り、主役としての出番を作ること。
 それまで、従兄妹の結婚式で詩吟を披露しては親族の感涙を誘っていた祖父も、もう、座っているのがやっとという年齢になっていた。それでも、生まれてから8歳までを一緒に過ごした私のために、出席してくれた。
 私は、宴の佳境に、両家の祖父と新郎との「盃交換」という場面を用意した。その日のために、世界に二つしかない、ある特別な盃を準備した。
 祖父に注いでもらった酒を私が飲み干し、固い握手をし、そして、その盃を祖父に贈った。
 ウェザー・リポートの 「A REMARK YOU MADE」 が静かに流れていた。あなたが生きた証を忘れない、というメッセージを込めて。
 この時の写真が、遺影よりも好きで、命日には、私の手元に帰ってきたその盃で、酒を飲む。


 38歳の春、福岡で行われた古謝美佐子さんの唄会で、一枚のフライヤーを手にした。
 「基地を笑え!お笑い米軍基地」と書かれていた。
 FEC福岡県人会を名乗るに至る歴史は、こうして、偶然に始まった。
 そして、それ以来、私の沖縄への関わりは大きく変化し、深化した。と同時に、沖縄と、その多くは不幸にして、切っても切り離せない関係にあるアメリカについても様々な角度から見るようになった。
 見て、歩いて、感じたいと思った。戦世とアメリカ世を知ることから、もう一度、今の沖縄との関係を築こうと思った。旅に出た。
 60余年前が見えてきた。現在と未来が、少しずつ、見えてきた。
 歩いた分だけ、沖縄が、日本が、アメリカが見えてきている。




 最後に。二人の祖父について。
 
 上記のように、たくさんの思い出を残してくれた父方の祖父。

 一方、母親の父は、65年前の今日、1944年6月18日、ニューギニアで「戦病死」した、と戦死通知に記されている。あとは、たった2枚の写真が残っているだけ。
 様々な資料や戦記を読んでも、戦死通知に書かれている地名がどこなのか、今もって分からない。
 ただ、そこから垣間見えた、飢えと熱病のジャングルを想像し、無謀な作戦や軽視された人命を想起する時・・・

 アメリカ(連合軍)との戦争で命を落としたという実感は、ない。

 
categoryかたえくぼ  time20:08  authorKohagura Erio 

Comments

kittyaki wrote:

ジャニスの♪クライベイベー♪を聞きながら
 りょうえくぼです

鮮烈なおませな半生を楽しく読みました

プロレスはシャツを破られ両方の選手から
必殺技を受けるレフリーの「沖識名」が好きでした

相撲は「横綱朝潮」の時代・島でも
時間差包装のテレビの前で30名の大人が
目と口を尖らせていました

元の姿が無いハンバーグは食べません
ケンタツキーかスバ!

空瓶・盃・父の日 

さーふーふしてみましょうか~~~
2009-06-20 time21:00

Kohagura Erio wrote:

きっちゃきさんの「時代」が分からなくなってきましたねぇ。

レフェリーはミスター高橋かジョー樋口、
横綱は北の湖か輪島・・・と、勝手に想像しておったのですが。
つまり、勝手にチルミー(※)であると思っていたのですが。
 ※ FECのアカバナー青年会さん(43)から教わりました

今、サーフーフーで、『タカダワタル的ゼロ』のDVDを見る準備をしております。
もしや、渡さんが「♪自○隊へ入ろう~」とか唄っておられたのを
リアルタイムで聴いておられたのでしょうか・・・?

私は父の日もサーフーフー。
折り返し点を(たぶん)過ぎて、愚息は当分、おちゃめな半生を無反省に生きます。
空瓶の中では、空気も熟成しています。
2009-06-20 time22:37

kittyaki wrote:

チルミー チルユー  
のきっちゃきです
南島は竜宮なので時間を超越してるのでし

クリムゾンの「アガー!」って顔のアルバムとか
「原子新保」のLPがダンボールにあるはず

ビートルズ世代には乗れませんでした
ゲッチュバック(映画)は好きでしたが…

すかす…

サイモン&ガーファンクルが好きです
卒業(エレーン!!!)で
音楽と映像の楽しさ知りました。
2009-06-24 time00:29

Kohagura Erio wrote:

きっちゃきさんの、6月21日のどぅーちゅいむにーを読んで、
アンダー・サーティー・アンダギーだとは思いました。

私の青春時代、「貸しレコード屋」という商売がありました。
昭和から平成になる頃、「レンタルCDショップ」という業態に一斉に転換しました。
私はその際、学生定食より安く売られた「放出品」LPを、
まるでスクの群れを獲るように買い漁りました。

その多くは・・・、やはり、ダンボールの中です。

LPカジャー、たまにはいいもんですね。
2009-06-25 time00:31

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