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2009-06-15
初めてのシーサー
2008年3月18日。沖縄で初めて迎えた朝。
厚い雲間から顔を覗かせ始めた太陽が、濡れた路面を照らしていました。
6月3日に書いた、「八重瀬岳の麓で」。
あの直後、私は「第二富盛」バス停の方向へと戻り、県道を渡りました。そして、まだ、朝の静けさに包まれた富盛の集落を抜け、「勢理城の石彫大獅子」、通称「富盛のシーサー」を目指して坂を登り始めました。
途中からは、雨で山土が流れ出し、落ち葉に覆われた石段。滑りやすくなっています。足元に気をつけながら。
その目線の先には、雨上がりの散歩を楽しんでいるかのような、無数の小さなカタツムリたちも。
より一層、足元に気をつけながら。一歩一歩。
平日の早朝。そして、直前までの激しい雨。私以外に人影はなく、その静寂は逆に、生物や植物の息吹きを際立たせていました。
そんな中、じっと佇む、石のシーサー。
緩やかな時の流れの中で刻まれた風雨の痕跡。人が残した鉄の弾の痕跡。

幾ばくかの予備知識を思い出しながら前に立ち、静かに見つめました。
その姿は、時代を行き来し、時に、カラーよりも鮮烈なモノクローム写真の残像と重なります。
周囲を緑に覆われ、自身もうっすらと苔生している、今、眼前の姿。
火難を鎮める守り神として、山の頂から長く民人を見守ってきたであろう姿。
その間に一時、通り過ぎた嵐。焦土と化した戦野で、ある時は、自らも銃弾を浴びた不幸な時代。
私の中にあった残像は、シーサーを弾除けにして、その陰で、旧日本軍と対峙するアメリカ兵の姿。
与座岳~八重瀬岳の防衛線を巡っての攻防の頃の記録写真か。

シーサーの周囲をほぼ一周する中で、その表情、陰影は大きく変化します。
それは、今まさに始まろうとする平和な一日を照らす、太陽の光がもたらすものではなく、
遠くて近い、歴史の光と影の所業。
やがて、ガジュマルの枝と葉、そして、気根の間から、ひときわ眩しく、陽光が射してきました。
遠くの道を走る車の往来の音も、別の形で、一日の始まりを告げています。
物言わぬシーサー。
ただ、目の前の出来事を見つめ続けただけ。表情を変えることなく。
この場所でも生命の相剋があったという事実と対峙し、登ってきた時よりも、より一層、今を生きる生命の存在を強く感じつつ・・・
カタツムリたちを踏まぬように、足元に目線を送りながら、私は石段を下り始めました。
その分だけ、自らの身体感覚への注意が疎かになってしまったのでしょう。
滑りやすいと思っていたのに・・・。下りはなおさら、滑りやすいと分かっていたのに・・・。
不覚にも、山土と落ち葉に足を取られ、派手に尻餅をついてしまいました。私の後頭部を守ってくれる形になったリュックは土まみれでした。ジーンズも推して知るべし。
しかし、さすがに、その場でジーンズを脱いで汚れを確かめることもできず、リュックを不自然に低く背負い、お尻を隠すようにして、バス停へ向かいました。

午前8時を過ぎ。糸満市街の学校へ通学すると思しき学生たちと、同じバスに乗り合わせることになりました。道中ずっと、お尻を気にしつつ、そのまま不自然な格好のままバスに揺られ、糸満市場入口でバスを降りました。
民宿の方のご好意で早々にチェックインさせていただき、そして、早速、汚れたジーンズの洗濯。
着替えを済ませ、糸満のまちぐゎーで朝ごはんをいただき、再び、雨が落ち始めた中、最初の目的地、平和祈念資料館へ向かいました。
3泊4日の糸満の日々が始まりました。ニンガチカジマーイの頃。
ところで・・・
第3回を書いて以降、一ヶ月以上、中断している「旅人の糸満に乾杯」。実は、第4回以降は、戦跡を巡った時のことを書こうと思っていました。
また、沖縄忌、6月が巡ってきました。今だからこそ書くべきなのか、逆に、今は静かに、沖縄を見つめるのがいいのか、逡巡している今日この頃です。
厚い雲間から顔を覗かせ始めた太陽が、濡れた路面を照らしていました。
6月3日に書いた、「八重瀬岳の麓で」。
あの直後、私は「第二富盛」バス停の方向へと戻り、県道を渡りました。そして、まだ、朝の静けさに包まれた富盛の集落を抜け、「勢理城の石彫大獅子」、通称「富盛のシーサー」を目指して坂を登り始めました。
途中からは、雨で山土が流れ出し、落ち葉に覆われた石段。滑りやすくなっています。足元に気をつけながら。
その目線の先には、雨上がりの散歩を楽しんでいるかのような、無数の小さなカタツムリたちも。
より一層、足元に気をつけながら。一歩一歩。
平日の早朝。そして、直前までの激しい雨。私以外に人影はなく、その静寂は逆に、生物や植物の息吹きを際立たせていました。
そんな中、じっと佇む、石のシーサー。
緩やかな時の流れの中で刻まれた風雨の痕跡。人が残した鉄の弾の痕跡。
あどけなささえ感じる表情。アルカイック・スマイルという言葉も浮かぶ
幾ばくかの予備知識を思い出しながら前に立ち、静かに見つめました。
その姿は、時代を行き来し、時に、カラーよりも鮮烈なモノクローム写真の残像と重なります。
周囲を緑に覆われ、自身もうっすらと苔生している、今、眼前の姿。
火難を鎮める守り神として、山の頂から長く民人を見守ってきたであろう姿。
その間に一時、通り過ぎた嵐。焦土と化した戦野で、ある時は、自らも銃弾を浴びた不幸な時代。
私の中にあった残像は、シーサーを弾除けにして、その陰で、旧日本軍と対峙するアメリカ兵の姿。
与座岳~八重瀬岳の防衛線を巡っての攻防の頃の記録写真か。
雨に濡れた石の質感が、無数の弾痕を一層、際立たせる
シーサーの周囲をほぼ一周する中で、その表情、陰影は大きく変化します。
それは、今まさに始まろうとする平和な一日を照らす、太陽の光がもたらすものではなく、
遠くて近い、歴史の光と影の所業。
やがて、ガジュマルの枝と葉、そして、気根の間から、ひときわ眩しく、陽光が射してきました。
遠くの道を走る車の往来の音も、別の形で、一日の始まりを告げています。
物言わぬシーサー。
ただ、目の前の出来事を見つめ続けただけ。表情を変えることなく。
この場所でも生命の相剋があったという事実と対峙し、登ってきた時よりも、より一層、今を生きる生命の存在を強く感じつつ・・・
カタツムリたちを踏まぬように、足元に目線を送りながら、私は石段を下り始めました。
その分だけ、自らの身体感覚への注意が疎かになってしまったのでしょう。
滑りやすいと思っていたのに・・・。下りはなおさら、滑りやすいと分かっていたのに・・・。
不覚にも、山土と落ち葉に足を取られ、派手に尻餅をついてしまいました。私の後頭部を守ってくれる形になったリュックは土まみれでした。ジーンズも推して知るべし。
しかし、さすがに、その場でジーンズを脱いで汚れを確かめることもできず、リュックを不自然に低く背負い、お尻を隠すようにして、バス停へ向かいました。
富盛の朝。神の言葉?
午前8時を過ぎ。糸満市街の学校へ通学すると思しき学生たちと、同じバスに乗り合わせることになりました。道中ずっと、お尻を気にしつつ、そのまま不自然な格好のままバスに揺られ、糸満市場入口でバスを降りました。
民宿の方のご好意で早々にチェックインさせていただき、そして、早速、汚れたジーンズの洗濯。
着替えを済ませ、糸満のまちぐゎーで朝ごはんをいただき、再び、雨が落ち始めた中、最初の目的地、平和祈念資料館へ向かいました。
3泊4日の糸満の日々が始まりました。ニンガチカジマーイの頃。
-2008/3/18-
ところで・・・
第3回を書いて以降、一ヶ月以上、中断している「旅人の糸満に乾杯」。実は、第4回以降は、戦跡を巡った時のことを書こうと思っていました。
また、沖縄忌、6月が巡ってきました。今だからこそ書くべきなのか、逆に、今は静かに、沖縄を見つめるのがいいのか、逡巡している今日この頃です。
Comments
やんばるシーサー wrote:
2009-06-16
20:06

Kohagura Erio wrote:
やんばるシーサーさん、はじめまして。
コメントありがとうございます。
64年前の、同じ写真をご覧になっておられることと拝察いたします。
また、今日の、同じ場に立たれた想いを寄せていただき感謝したします。
個人の一生、家族の歴史、共同体の絆、自然と共生する智慧、拝みの地、伝承・・・
人の生命とともに、その人に関わりを持ち、連綿と続いてきた事象すべてを、
長い時間をかけて築いてきたものを、一瞬にして消し去ってしまうのが戦ですね。
戦によって失われる前の、慎ましくも、ささやかな幸福に満ちた
人々の生活に思いを馳せることによって、
戦争の本質が見えてくるかもしれない、と思っています。
しかし、そんな生活の記録のほとんどが失われ・・・
富盛のシーサーの写真もアメリカ側の目線。
このことは、アフガニスタンでも、イラクでも繰り返されている図式ですね。
ミサイル発射の映像はあっでも、着弾の映像はない・・・藤原新也さんの洞察です。
今、老境を迎えた方々の言葉に耳を傾け、大切に受け継がねばならない
そんな、シーサーの声が聞こえてくるようです。
コメントありがとうございます。
64年前の、同じ写真をご覧になっておられることと拝察いたします。
また、今日の、同じ場に立たれた想いを寄せていただき感謝したします。
個人の一生、家族の歴史、共同体の絆、自然と共生する智慧、拝みの地、伝承・・・
人の生命とともに、その人に関わりを持ち、連綿と続いてきた事象すべてを、
長い時間をかけて築いてきたものを、一瞬にして消し去ってしまうのが戦ですね。
戦によって失われる前の、慎ましくも、ささやかな幸福に満ちた
人々の生活に思いを馳せることによって、
戦争の本質が見えてくるかもしれない、と思っています。
しかし、そんな生活の記録のほとんどが失われ・・・
富盛のシーサーの写真もアメリカ側の目線。
このことは、アフガニスタンでも、イラクでも繰り返されている図式ですね。
ミサイル発射の映像はあっでも、着弾の映像はない・・・藤原新也さんの洞察です。
今、老境を迎えた方々の言葉に耳を傾け、大切に受け継がねばならない
そんな、シーサーの声が聞こえてくるようです。
2009-06-17
20:42

このシーサーが見てきたことや体験したことを
もしもこのシーサーが語ることが出来たら?
とか(何処かで聞いたような話だけど)、
今はうっそうとした森の中の感じだけど
まさに弾除けに使われながら敵味方の最前線で
銃弾の嵐の中に物言わず佇んでいるあの写真が
彷彿としてきました、
彼の体に無数に残る弾痕は何を語りたいのか
あるいは我々に何を伝えたいのか、又伝えてもら
いたいのか、
単純に反戦とかの意味ではなく、琉球王朝の
頃の人々の日常の中でその悲喜交々すべてを見て
きているのだから・・・・。