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2017-04-21



伊江島 平和祈願祭の日

  
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-2010/2/17 伊江島-



2012-04-28

黄金森の見た歴史 文化センターの想い

    
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     2010年春。
     一年ぶりの黄金森、三度目の黄金森。
     この情景を見て、まず、不発弾を憂う。





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     しかし、表層の不発弾は、戦後の早い時期に処理されたとのこと。
     地表面や埋葬地の遺骨取り上げとともに。
     それだけ激しい、戦世の傷跡が残された場所。

     森は戦後に再生されたものなのか。
     戦の前からの生き残りもあったのか。
     黄金森は、今また、黄金森。

     それでもなお、地下に眠る陸軍病院壕。
     それでもなお、拾った不発弾を、近くの小学生が学校に持ち込む。
     もっと前には、この森で遺骨を見つける子どももいたという。

    



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     二年ぶり、二度目の南風原文化センター。
     初めて訪れる、新しくなった文化センター。
     2009年11月に開館。

     「飯あげの道」に近く。

     二年前に訪れた旧・文化センターは、南風原小学校の向かいにあった。
     昔は給食センターだったという、手づくりの温もりに包まれたセンターは、
     その年の秋には役目を終え、新・文化センターへ、歴史と温もりを引き継いだ。



     南風原町。
     南風原文化センター。
     黄金森。
     沖縄陸軍病院南風原壕群20号。

     2008年春、初めての沖縄ひとり旅の、ちょうど折り返し点。
     旅の前半、南部戦跡を歩き終え、後半、読谷方面へ向かう前の十字路。
     その十字路で、さまざまな出会いがあった。

     陸軍病院壕に入壕する前の、事前学習というくらいのつもりで訪れた文化センター。
     しかし、ここで得たものは、その後の旅のあり方を変えるほどに、大きかった。

     質感のすべてがそのまま感じられる、戦中の遺品の数々。
     自分の背丈と比べて感じる艦砲弾の大きさ。
     往時の人が身につけていた、穴の空いた着物。
     それらが、ガラスケースにも入れられずに、目の前にある。



     しかし、戦世だけが文化センターの「文化」ではない。

     戦世がなければ、ずっと受け継がれていたであろう暮らしが、
     そして、戦世を乗り越えて今に受け継がれている歴史が、
     町民の目線で、町民参加、町民手づくりで、展示されている。
     衣食住、祭り、遊び、音楽、誕生から後世までの豊穣たる人生儀礼。
     ずっとずっと守られてきた、守りつづけなければならないもの。

     そして、あらためて、守られてきたもの、守りつづけなければならなかったものを、
     破壊しつくしてしまった戦に向き合う。
     誕生から後世まで、一歩一歩、一日一日、一年一年、
     積み重ねてきたかけがえのない生命が、祝福とともにあった生命が、
     一瞬に絶たれる非業を想う。

     平和とは、戦争の対義語であるとともに、文化や暮らしそのものだと、切に思う。



   ※ 新・南風原文化センターの常設展示は、
     「南風原の沖縄戦」「戦後 ゼロからの再建」「移民」「人びとの暮らし」となっています。
          




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     南風原国民学校は現在の南風原小学校の場所にあった。
     「10・10空襲」の後、那覇にあった沖縄陸軍病院が、南風原国民学校に移ってきた。

     1945年3月下旬、艦砲射撃と空襲の激化にともない、
     陸軍病院は黄金森の手掘りの壕へ。

     3月23日、「ひめゆり学徒隊」、黄金森へ。
     沖縄師範学校女子部・県立第一高等女学校の生徒222人と引率教師18人が、
     看護補助要員として動員される。
    




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     南風原の国民学校児童生徒は、1944年8月、同9月、
     二次にわたって九州へ疎開。

     8月21日、和浦丸とともに那覇を出港した対馬丸は、
     翌22日、魚雷攻撃を受けて沈没。
     犠牲者数1418名(氏名判明者=2004年8月現在)。




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     折にふれ、南風原を訪れる。

     ただ、景色を見るためだけに黄金森に立ち、そこで、大切な出会いがあったりもした。
     「字マップ」を手に、古い歴史を訪ね歩くこともある。
     時に島酒を酌み交わすのも、文化や暮らしそのものだと、平和の夜に背筋を伸ばす。


    ■ 2009-01-30 平和を想い、願う十字路
    ■ 2010-06-20 二人の語り部(後)


-2010/2/15 黄金森・南風原文化センター(南風原町 喜屋武)-


 ■ 参考図書
  『沖縄陸軍病院南風原壕』 吉浜忍・大城和喜・池田榮史・上地克哉・古賀徳子(高文研)
  『対馬丸ガイドブック』 財団法人対馬丸記念会監修(編集工房東洋企画)


 

2012-02-25

男子かりゆし

   
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     葉タバコ苗の定植機 マルチの畝を行ち戻い(いちむどぅい)

     畦道でUターンするとき こんな造形が生まれます
     思春期ウーマクーの わちゃくではありません
     芸術とエロスの 相克でもありません
 
     男子かりゆし サーサ ユーハイセー
     頬染める アグリ・カルチャー・ショック

     ちちぬゆ(月の夜) ちちぬゆ(乳の世)
     ミルクゆがふ(弥勒世果報)

     今宵 酒小 だんじゅ いいあんべぇ


-2010/2/18 伊江島-



2012-02-23

勝連の海 ~ かっちん城 あけもどろ

   
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     ホワイトビーチを目指して歩く、ほんの数時間前、
     こんなぜいたくな朝を、ひとり、満喫しておりました。


     四方をぐるりと見渡して、海の姿に思うことも多々あれど、
     地上のすべてがあけもどろに染まり、やがて、輝きはじめるさまを眺めるに、
     旅の民草もしばし、肝高の恍惚に身をゆだねたのでした。     


     そんな朝に、思いました。
     その土地を好きになってはじめて、その土地を思うことができるのだろうと。





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     この朝の日記、そして、勝連グスクの思い出、よろしければ。

     ■ グスクへの道(3) 2010-03-20
     ■ かっちん城 ふたたび 2010-10-03
     ■ 聖なる夜は思い出の中に 2010-12-24
     ■ 至高のアコークロー 2011-10-06    

 

-2010/2/20 勝連城跡 (うるま市 勝連南風原)-



2012-02-22

しかまち かんぱち ホワイトビーチ 

    
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     ホワイトビーチは、そう簡単には見ることができないと思っていた。
     それまでに訪れた、カデナやフテンマがそうであったように。
     フェンスのそばまでは行けても、その奥に何があるのかは、巧妙に目隠しをされている。
     あるいは、見通せる場所には入れないようになっている。

     なので、ゲートのある平敷屋へは向かわずに、
     勝連平安名から、海沿いの道を通って接近することにした。

     といっても、そんな大それたことをするつもりはない。
     フェンス越しになるか、木立や、岩場の向こうになるかはわからないが、
     ただ、その姿を垣間見てみたかった。
     そして、その土地の暮らしとどのように接しているのかも、肌で感じてみたかった。


     同じ港でも、那覇軍港は、対岸の通堂町や、奥武山のスタジアムや、
     いつも泊まっている那覇港近くの宿の屋上からも、331号線のフェンス越しでも、
     そして、那覇港を出入りする旅客船の甲板からも、すべてが丸見えである。

     那覇軍港とホワイトビーチの、軍事上の性質の違いも、
     このときはまだ、明確には区別できていなかった。
     それでも、オキナワの各所で目にする「フェンスの向こう」とは一線を画すものがあるだろうと、
     漠然とではあるが、そういう予感は持っていた。
     一年前の春の日の、艦影の残像があったから。



     ホワイトビーチの名を知ったのは一年前、二度目の沖縄の旅でのこと。
     中城城址を訪れた折、グスクから、そして、その登り下りの道すがらも、
     中城湾に浮かぶ、ただならぬ艦影を見たことがきっかけだった。

      「民間の船には見えないのですが、あれって・・・」

     グスクの案内所のお母さんに、遠慮がちに尋ねた。

     このとき、2009年の3月、「マルチ・セイル」という名の演習が行われ、
     アメリカ海軍の駆逐艦や海上自衛隊の艦船がホワイトビーチ付近に集結していた。
     そんなことを知ったのは、ずいぶんと後のこと。

     



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     最初に立ち寄った砂浜からは何も見えず、与勝ゴミ処理場跡の前を通り過ぎる。
     まったく人の気配のない道を進む。
 
     3万分の1の地図で、やがて、道は二股に分かれる。
     右へ進むと、ホワイトビーチの敷地へと至るらしい。
     地図上の色が、米軍用地を表す薄緑色になり、道は破線で表示されている。
 
     当然のごとく、左へと進む。
     薄緑色から100m内外の距離を保って、その道はホワイトビーチに沿ってつづき、
     やがて、平敷屋へと至るはずである。

     正面にレーダードームのような建造物が見える。
     ホワイトビーチのものか、あるいは、隣接する海上自衛隊沖縄基地隊のものか。
       




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     二本あるうちの、西側の桟橋が見えてくる。
     海上自衛隊も使用しているようで、護衛艦らしき艦上には日章旗が見える。

     4倍ズームが限界の、コンパクト・カメラを向ける。

     自分のカメラの画像を確認しながら、しかし同時に、別のカメラの存在を意識する。
     何かしら、カメラらしきものを認めたわけではない。
     しかし、何者かがこちらを見ている、カメラ越しに見ているという想念が、
     じつは、歩を進めるごとに強くなってきていた。

     右手は雑木林から、間近に迫るフェンスへと変わっていた。
     地図で見る限り、こんな近くにフェンスがあるとは想像できなかった。
     自分の歩いている道と薄緑色の米軍用地との間には、
     相当の距離が、緩衝地帯があるはずなのだが。
     
     有刺鉄線の張り巡らされたフェンス、その等間隔に高い支柱があり、
     支柱の上には、警報用のライトか回転灯のようなものもある。 
     監視カメラ、赤外線カメラのようにも見える。


     左手には、見慣れた看板。

      U.S. ARMY FACILITY 米国陸軍施設
      米国用地に無断立入ることを禁止する
      違反者は日本国の法律に依って罰せられる


      「どうしてここが陸軍施設なのか」

     そんなことを考える余裕を持ちつつ(ここの桟橋は物資の揚陸にも使われる)、
     それでも、看板がまっすぐ、こちらを向いていることが気にかかる。


     ふいに、とんでもない仮説が頭に浮かぶ。

     もしかして、左へ進むべき道を、誤って、右へ進んでしまったのではないか。
     気づかないうちに、米軍用地の中に、入り込んでしまったのではないか。

     冷静になる。

     いやいや、そんな、ゲートも通らずに、米軍用地に入れるはずはないし、
     そんな甘っちょろい警戒態勢であるわけがない。  
 
     それでも・・・。

     もう一度、看板を見る。
     まるで、ゲートがオキナワを睥睨しているかのように、
     その看板は、こちらを見据えているようにも見える。

     あと一歩、踏み込んだとき、警告音が鳴り響き、回転灯が点灯し、
     ジープに乗ったMPが駆けつけてくる。

     そんな事態を、リアルに想像してしまう。  



     伏線がある。

     前日、辺野古を訪れていた。
     辺野古の浜とキャンプシュワブとを隔てるのは、今はコンクリートの障壁になってしまったが、
     当時はまだ、人の背丈ほどの有刺鉄線だけだった。
 
     テントの方々から、浜の有刺鉄線に近づくのはいいが、
     単独で行くと、マリーンが駆け出してきて、威嚇されたケースがあるという話を聞かされた。
     もちろん、威嚇は威嚇であって、法的にもなんら臆することはない、と思ったのだが、
     それでもやはり、騒ぎは起こしたくないと思った。


     
     今ここで、騒ぎが起こったとしたら。

     辺野古と違って、だれも助けにはきてくれない。
     それに、もし、道を間違えて、本当に米軍用地に足を踏み入れてしまったとしたら、
     法的にも、その法理はさておき、「違反者」ということになる。

     それよりも、まずいと思ったこと。

     コザの民宿をまだ引き払っていない。
     おばぁのご好意に甘えて、昼過ぎまで荷物を置かせてもらっている。
     昼前には平敷屋からバスに乗って、コザまで戻らなければならない。

     そして、もっとも恐れたこと。

     なにかトラブルなど起こそうものなら、この先の沖縄旅行の目はなくなる。
     毎回、旅行前に、「無茶、無理はしない」という約束をとぅじと交わしているが、
     万一、外務省やら防衛省の手を煩わせるような失態を演じたとすれば、
     これはもう、致命的な約束違反となる。
     「ゆーしったい!」では済ませてもらえない。


     



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     ガードレールのある小さな橋まで、それでも歩いてきた。
     地図でみると、その橋で小河川を渡るということは、
     間違いなく、正しい道を歩いているということになる。

     ところが、もう、そんな冷静な判断をすることもできなくなった。
     ルビコン川を前にしたような心境だった。
     橋の向こうはアメリカであるかのように思えた。

     苦渋の決断、いや、しかまちかんぱち。

     予想以上の近さからプレッシャーをかけてくる右手のフェンス。
     自分以外にだれもいない静けさ、民宿の荷物、そして、とぅじ。
     橋の手前で、心乱れて、きびすを返す。
     勇気ある撤退というより、見えない何かに尻尾を巻いて、引き返すことにした。




     きびすを返して、一分もしないうちに、背後からエンジンの音が聞こえてきた。
     鳥肌とともに振り返る。

     白い車体。軍用塗装ではない。ジープでもない。
     白い軽トラック。

     運転席の中がわかる距離まで近づくのを待って、
     ちょっと話がしたいという目線を送る。
     おじさんが、窓から顔を出してくれる。

      「この道って、平敷屋まで、通り抜けできますか?」

     少し前まで進もうとしていた方向を指差す。

      「ああ、このまんま、まっすぐ行ったら、県道に出るよ」

     平敷屋とは反対方向に歩いていながら、そして、また、
     Uターンして平敷屋へと歩き出そうとする旅行者を、
     とりたてて不思議がることもなく、軽トラックのおじさんは平安名の方へ走り去って行った。

     力が抜けるとともに、笑いがこみ上げてきた。
     ふいに、喉の渇きと、空腹を覚えた。
     冷静に地図を読んだ。


     一度は引き返した橋を、渡った。
     その橋を振り返って、また、笑った。





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     暮らしの音や香りが漂ってきた辺りで、海側の眺望が開けた。
     そう簡単に見えるはずがないと思っていた、ホワイトビーチの全容。

     朝から半日かけて歩いてきた海沿いの小道が、平敷屋の集落に至る、ちょっと手前。
     そこから俯瞰する二本の桟橋と、広大な緑地帯。
     あっけないほどに。





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     「9.11」の前、地域の方は許可を得て、桟橋で釣りをすることもできたと聞く。

     
     この春の旅で、伊江島の補助飛行場を歩き、辺野古を訪ね、
     そして、こうやって、ホワイトビーチも見た。

     旅を終えて後、鳩山政権の迷走の中で、ホワイトビーチ沖案も俎上に載ったはずだが、
     この旅の時点ではまだ、勝連の海を埋め立てるなどという話は、
     巷間を騒がせていなかったと記憶している。
     もし、そんな話が念頭にあったら、この海の見方はもっと変わっていたと思う。       



     それにしても、この道中は一体、なんであったのか。

     前述のように、この一年前にはまだ、ホワイトビーチの存在自体を知らなかった。
     その程度の認識で、それでも、できる限り現場を見てみようと、
     ない知恵を絞り、しかしかー(びくびく)しながら、海沿いの道を歩いてみた。

     最近でこそ、「ただ見てきました、というだけの旅はしたくない」などと高言しているが、
     今振り返るに、この道中は「ただ見てきました」以外の何ものでもないように思う。

     それでも、旅を終えてのち、オキナワの基地のことを以前より大局的に、
     さまざまなことと関連づけて見るようになった契機ではあった。



     この年の秋には、キャンプ・コートニーから天願桟橋を歩き、
     燃油、弾薬、物資の「補給」という視点を強く持つようになった。
     地上からは見えないパイプラインやタンクファーム、弾薬庫の存在を意識するようになった。
     滑走路だけではない、辺野古に固執するロジックの一端が見えるように思う。

     そして、オキナワに寄港する艦船の動向を追うほどに
     日本本土、朝鮮半島、グアム、そして、太平洋まで含めた行動も視野に入る。

     ここ数日の報道で話題に上る、那覇軍港地区の返還。
     高速輸送船ウエストパック・エクスプレスや、巨大な輸送船から陸揚げされる車輌や物資。
     代替施設を見つけるのが容易でないことは想像に難くない。
     報道や政府の言説を、「ああそうですか」とは受けとめられない。   



     沖縄で平和を考えるとき、オキナワを取り巻く世界や、
     必ずしも平和的ではないロジックとも対峙せねばならない。

     「見てきただけの旅」
     「語るだけの平和」

     そんなものでは、複雑に錯綜するロジックを超えることはできないと思う。
     だから、どんなロジックよりも重く、確かにあった、戦世の記憶を辿る旅をまた、つづける。    
   




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     静穏な桟橋である。
     旅を終えて後も、そう思っていた。 
     しばらくして、この日のホワイトビーチへの寄港状況を知る。

     それを知った上でよく見ると、東側の桟橋の奥に接岸している、潜水艦らしき艦影。

     ロサンゼルス級攻撃型原子力潜水艦コロンビア。
   
     これもまた、オキナワの海の、ある一日の姿である。


-2010/2/20 うるま市 勝連内間・勝連平敷屋-



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