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2010-08-05



目からよだれ 耳から83.2MHz

   
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     今年の夏が ピークの力を誇示している
     福岡県は筑紫平野の 今日この頃

     沖縄の炎天下を歩き回るのとは違い 照りつける太陽はないものの
     沖縄の夜を満喫した翌日とは違い 二日酔いはないものの

     なかなかに堪える 肉体的疲労の日々
     冷えたうっちん茶は 汗の後でもでーじまーさん
      


     ひとときの クールダウンの夜
     今週「ちゅらじお」で パソコンに録り貯めておいた
     FMとよみの番組を ビール片手に聴いています



     ボギーさん

     そのままの調子で、愛されるキャラで、
     番組を心地よい変拍子のリズム(?)に乗せてがんばってください。
     夏休みの宿題は、『八重山手帳』を二ヵ月分くらい先まで予習しておくこと、かな?
     さっき、ニーブイしかかりながら、
     「オリオン・スペシャル・エックス」24缶箱をネットで注文しました。
     ヨイショー!

     恒慈郎さん 大輔さん
     古典の醍醐味を満喫しました。
     男三人の声のハーモニー、ジャズ的に言うと、
     テナーとバリトンだけのサックス・アンサンブルのようで、
     なかなか妙なるものがありました。

     余談ですが、唄者、ミュージシャンの皆さんは、
     夜がたいへんで、ゆえに、朝はもっとたいへんであることは、
     『URUKAの島めぐり時間』を聴いている中で実践で学びました。

     みかさんも当然、入っているさいが。



     パーランクーサーランクーさん・・・じゃなかった、
     アゲナさん しょうこさん

     長崎・熊本あたりの面白い方言エピソードをお届けします。
     月曜日の生放送中はしばらく無理なので、日曜日にでもメールにて。
     津堅島にも行きたくなりました。
     今春、平敷屋までは足を延ばしたのですが、
     ホワイトビーチをスーミーするというテーマに時間を要しすぎました。

     なお、明太子入りニンジンシリシリー(特許申請中)は、
     以前お世話になった、職場の独身寮の寮母さんからアイデアをいただきました。
     冷めても美味しいというのはまったくそのとおりで、
     よく、お弁当にも入っていました。
     ただ、寮母さんは生粋の博多っ子で、その当時、シリシリーとも呼んでいなかったので、
     伝来ルートは謎のままです。   

 

     ともじさん ひとささん

     「照屋家の群像」というテーマで、「うちゃぬく歳々的お話」ができそうですね。
     そして、「それぞれの首里城ツアー」、ロケ地や沖縄側の登場人物が目に浮かぶだけに、
     その情景までも想像でき、パソコンの前でも笑いのリアクションでした。
     琉球創世記(?)も、壮大なスペクタクル、はたまた、荘厳なる神話というよりも、
     まるでマンガを読んでいるように楽しめました。
     ちなみに、あの言葉、
     貴人がお出ましになる際の、「何某さまのおな~り~」という口上もありますし、
     何よりも謂れのはっきりしている歴史ある言葉なので、
     必要以上に連呼さえしなければいいのではないでしょうか・・・?

     なお、本日、文化事業部あてにお便りを出しました。
     立秋を過ぎてから、暑中見舞いが届くかもしれません。
     若干、ウケ狙いです。




     ありゃ?
     それで 写真とタイトルと今日のお題は どういう脈絡で
     いったい何だったっけ・・・?


     山羊汁食べたい・・・ でした


     さきほど 耕作放棄地に山羊を放して除草するという
     福岡発のローカルニュースを見ていて つい・・・


     刺身も・・・ 食べたい・・・


     食べに行く日まで・・・ アララガマ!


-2009/6/29 那覇市 真地-


-Special Thanks-
  FMとよみ(沖縄県豊見城市 83.2MHz)
  ちゅらじお(沖縄発インターネットラジオ http://www.churadio.com)
  パーソナリティ&ゲストのみなさま


2010-06-23

慰霊の日に想う

  
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     基地を見下ろす




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     基地を見通す





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     基地の隣の美術館で 「沖縄戦の図」を
     遠くから見据え 近くから見上げる 





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     基地へとせり出すように伸びる この屋上の階段は
     今日 6月23日 慰霊の日に
     太陽の沈む日没線を指しているという


-2009/6/27 佐喜眞美術館(宜野湾市)-





     映画『チビチリガマから日本国を問う!』(西山正啓監督・2010年作品)を、
     つい先日、福岡市で見た。

     舞台の大半は霞が関であり、
     映像の大半は、金城実さん、知花昌一さん、知花盛康さんらが、
     去る4月上旬に、首相官邸前や国会周辺で行った、
     基地問題に関する抗議、申し入れ、座り込みなどの行動を追ったものである。
     二ヶ月前の、四日間のドキュメントが中心である。

     その感想や思うところについては、また、機会を改めて触れたい。
     
     二つだけ。

     普天間、辺野古、という風に「点」で見ても、また、今の姿だけを見ても、
     基地問題や、沖縄の平和への道筋は見えてこない。

     そして、読谷村が戦中、戦後の沖縄の縮図であり、
     読谷村の育んできた文化や、そこに暮らす人々や、
     基地と向き合ってきた足跡の中に大きな示唆がある。

     そういうメッセージが、この作品には込められているのだと思う。
     上映後の監督を囲んでの懇談でも、そのような話題になった。



     そして、あらためて、
     霞が関の日々と、最後は4・25県民集会の映像であっても、
     それでも、タイトルは『チビチリガマから・・・』、である。


     冒頭、今年4月3日に清明として行われた、
     チビチリガマの慰霊祭の模様が収録されている。

     『ゆんたんざ沖縄』(同監督・1987年作品)が撮られた時から、
     ずいぶんと歳月が流れたなどと、軽々に言うことはできないが、
     それでも、壕の前の広場の、ブルーシートの上で行われる清明の光景は、
     穏やかな空気に満ちているように見えた。

     映像の中に見つける、見知った顔に、懐かしさを覚えたせいかもしれない。

     命を落とした者を悼む想いと、今、時間を共にする生ある者同士が互いを想う心が、
     悲しみの壕の前で交わっているように見えた。
     「集団自決」「集団強制死」の現場の前で。


     
     このシーンを見たとき、ひとつの思いにとらわれる。

     その文化的、歴史的背景を知っているわけでもない、
     ましてや、清明の場に身を置いたこともない者の、まったくの思いつきであり、
     言下に否定される着想かもしれない。
     それでも、その思いを言葉にすると、このようなものである。


      「今現在の、一見、のどかなピクニックのようにさえ見える清明の形式は、
      実は戦後になって生まれたものなのではないか。

      沖縄の方々にとって、グソー(後生)におられるご先祖の中の、ごく近しい方の多くは、
      先の沖縄戦で亡くなった方であるということは想像に難くない。

      戦後すぐの頃、清明という日は、あまりにも鮮烈すぎる、悲しすぎる死と、
      その記憶と向き合わねばならない、辛い一日だったのではないか。

      であるがゆえのに、その記憶をあえて心の深奥に置き、
      生ある者同士、互いの苦痛を少しでも和らげるために、いたわり合うように、
      ひとときの宴を楽しもうと努めたのではないのか。

      小那覇舞天さんが、「命の祝事をしよう」と家々を回ったように、
      それを受け容れた人々の心の持ちようと同じように」


      お墓の前に集い、重箱料理と交歓を楽しむ清明とは、
      沖縄の古くからの心と、戦後の復興の中の智慧とが溶け合って生まれたもの。


      もし、この着想に従うならば、
      映画の中の、チビチリガマの前の清明のシーンの見方も変わってくる。
 
       「穏やかな空気に満ちているように見えた」情景の本質は、一変する。

      いや、やはり、清明は清明で、
      ずっと昔から、形を変えずに今日に至っていると考えるべきなのか。



      昨春、チビチリガマを訪れる。
      昨夏、佐喜眞美術館に収蔵、展示されている「沖縄戦の図」を見る。
      昨秋、『ゆんたんざ沖縄』の中で、丸木俊さんが読谷の戦世を生きた女性と語らいながら、
      「沖縄戦の図」の絵筆を握るシーンを見る。

      慰霊の日には、65年間、ずっと基地がある。



      クバやアダン葉の舟に乗せて、
      アメリカ軍を、海の向こうの、彼らの祖国へと流す。
      ポークや、ルートビアや、レーションや、
      んむくじや、そーみんや、レトルトのソーキ肉なども乗せてあげて。
      アブシバレーのように。

      慰霊の日の夜は、そんな穏やかなことも思い描く心持ちになる。



2010-06-19

沖縄梅雨明け 2010

 
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     今日、2010年6月19日、沖縄地方が梅雨明け。


     写真の2009年6月28日は、去年、沖縄が梅雨明けした日。

     そして、この日の出来事は、
     暑さで頭が朦朧としていたわりには、
     暑さにバテてしまって、実際に歩いた距離は案外、短かったわりには、
     折にふれて、あれこれと書き残している。


     豊見城市田頭の石彫獅子、ウンチェー畑、
     豊見城市名嘉地の石彫獅子、果物屋さん、天ぷら屋さん、スイカ、ワラバー、
     糸満漁港の風景、ワラバーのロマンス、
     糸満市のまちぐゎーの午後、ロータリーでへばっているイングヮー、
     糸満市兼城のマヤー小、梅雨と夏が同居する夕景、
     那覇市の公園で深夜の脱皮に向かうセミの幼虫。



     それでもまだ、いくつか抜けているものもある。



     「壺川自練」辺りの、工事中だった高架の下を歩いて、「マックスバリュ」まで歩いたのは、
     一服の涼を求めたことと、朝から寝ぼけていて、ひげを剃り忘れていたことに気づき、
     100円ショップでカミソリを買うためであって、
     ついでに、ちょっと、店内のお手洗いと鏡をお借りして・・・、
     などという話は、あまり公に語るものでもないか。


     糸満市新島に、この時にはまだあった「ときわ湯」で、
     真っ昼間に、最後のお湯をいただいたという話は、
     湯あがりの汗がひかないのと同じくらいに、名残を惜しんだという話は、
     いずれ、ゆっくりと、万感の想いを込めて書きたいと思う。


     糸満市兼城に向かった目的は、お笑いコンビ「プロパン7」のライブだったのだが、
     笑いつづけた時間の記憶は飛んでしまうということに、最近、気がついた。
     そして、インターネット・ラジオを通してではあるのだが、
     毎週、向き合っている彼らへの想いを言葉にするのは、なんとなく、はじかさ~である。
     記憶は飛んでも、思い出はもちろん、しっかりと心に刻んでいる。



     糸満市の白銀堂に佇んだ時間が、おそらく暑さのピークだったと思う。
     前年の春は、糸満に三泊したというのに、
     白銀堂には宵の口の散歩で、ほんの短時間、訪れただけだった。
     今回はじっくりと見ようと思った。
     見ようと思ったのだが、見るよりもまず、巨岩の影で呆けて休みたかった。
     その後に流れた時間の記憶は、どこか茫漠としている。
     天を仰いだアングルの、巨岩と、緑の生命力と、青空の織り成す写真を、
     その時、縦に構えて撮ったのか、横に構えて撮ったのか、思い出せない。
     平衡感覚を失わせるような、神の空間であったのか、真夏の空気だったのか。
     

     国道に出て、巨岩の岩肌と、スラブとトタンとの間、
     神の空間と、人の暮らしの空間との辺境の、その間に立ち上る積乱雲を見て、
     「この暑さは、夏の暑さか」と、正気に返る。


    
     「ときわ湯」へ向かう前に、まちぐゎーの入口にある「平和食堂」で氷を食べる。
     本来、順序は逆である。
     正しい順序で、湯あがりに、氷やビールを味わうという至福は、
     もう、味わうことはできない。

-2009/6/28 白銀堂(糸満市 糸満)-




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     おそらく昨日だったと思います。
     2008年11月、「不惑の手習い」として始めたこのブログへアクセスをいただいた件数が、
     50万件を超えました。
     コメントをいただく皆さま、お顔の思い浮かぶ皆さま、
     そして、沖縄への片想い&どぅ~ちゅいむに~をご覧いただいた多くの皆さま、
     いっぺー にふぇーでーびる!(本当に ありがとうございます)

       (写真は糸満市某所にて)
  
  

2010-06-12

石の記憶

 
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  ずいぶんとくたびれて、しわだらけになった1万分の1道路地図のコピーには、
  赤いボールペンで、「金城商店の角、右折」という書き込みがある。
  そのコピーを大切に携えて、翌年の春も南風原町を歩いた。
  そして、一年半が経った夏の日、ようやく、その書き込みが示す津嘉山(つかざん)を訪れる。



  南風原町が「十字路」であるということは、今現在の地図や街の様子から知ったのではない。

  3万分の1が基本の沖縄県の道路地図の中でも、
  南風原町の中心部は1万分の1の拡大図が掲載されている。
  その地図からも、国場、仲井真、上間、兼城などがいずれも主要な十字路を形成しており、
  交通の要衝であることが見て取れる。


  しかし、十字路は、十字路であるがゆえに歴史の中で・・・。


  2008年の春、沖縄を初めて歩く前に買ったこの道路地図で南風原の頁を開いた時、
  沖縄戦の日々を追ったNHKのドキュメンタリー番組で知った、
  「死の十字路」という言葉を、どの場所に重ね合わせればいいのか、戸惑う。
  藤木勇人さんの一人芝居がインターリュードとして挿入されなければ、
  二日連続で見るのには心に鈍痛を伴うような番組だった。
  しかし、見なければならないと思った。自らの無知を埋め合わせるためにも。

  その多くが非戦闘員である避難民であろうと、
  人が多く集まる場所を狙って艦砲を撃ち込み、銃爆撃を加える。
  優勢な国家の戦略的非情と、劣勢の渦中に非戦闘員を巻き込んだ国家の非情。
  その両方の非情に打ちのめされ続けた「死の十字路」。




  初めての沖縄で、四日間滞在した糸満から那覇へ入り、
  翌日、南風原文化センターと沖縄陸軍病院南風原壕群20号を訪れた。
  最寄りのバス停ではなく、兼城十字路でバスを降りたのは、
  その「十字路」の今をこの目で見て、
  たとえわずかな距離であっても、そこから南へ向かって歩いてみようと思ったからだった。

  街は発展し、さらなる発展の息吹も感じる。
  南風原小学校が見えてきて初めて、「南風原国民学校」という言葉とともに、
  歴史に想いを巡らす。



  その一日の、南風原文化センターでのこと、陸軍病院壕でのことは、これまでに綴ってきた。
  いずれも、沖縄を旅する上での「十字路」となるような貴重な邂逅だった。
  翌年の春は、ただ、この丘からの風景を見ることだけを目的に、
  旧文化センターがあった更地の前に立ち、黄金森の展望台に登ったこともあった。




  沖縄を歩くといつも、旅の前に調べたことの数倍の、財産と宿題を得て帰ることになる。
  その宿題のひとつが、南風原町津嘉山の、民家の石塀に残された弾痕であった。



  初めての南風原文化センターで、長い時間を割いてお話を聞かせてくださった職員さんから、
  その石塀へ至る目印として教えていただいた記憶が、
  「金城商店の角、右折」という書き込みだった。

  ただ、その金城商店が今も開いているのか、あるいは、すでに店を閉じてしまっているのか、
  そういう話も伺ったような気もしたのだが、その記憶は薄らいでしまっていた。
  汗で擦り切れた地図のコピーの表面と同じように。




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道中の光景に、この年の1月の、糸満市小波蔵での不発弾爆発事故の残像が蘇えった



  しかし、一年半の歳月は、その場所を訪れる前に、宿題と向き合うために、
  必要な時間だったのかもしれない。

  この場所で、水平方向に銃弾、砲弾が飛び交ったのは、
  沖縄戦という時間の中のどの時点であったのか。
  なぜこの場所が、市街戦、あるいは、掃討戦の戦場となったのか。
  その時、南風原から南へ向かった人々の行く末を含め、南部で何が起こっていたのか。

  それらを知るために、知識も必要となってくる。
  時間軸と地勢図を常に念頭に置きながら、証言や記録の断片と向き合う。


  そこへ、新たに、六月の熱暑を自らの身体に刻む。


  この時も、最寄りの津嘉山バス停へ向かうことはせずに、
  那覇市真地から一日橋を経て、津嘉山へと向かう。
  橋脚に支えられたバイパスができる前、どのような道を辿って、この傾斜を下ったのだろうか。
  一日橋という地名は戦前の史料の中で頻繁に目にする。

  途中、大規模な工事が行われており、地図に載っている道が寸断されていた。
  迂回路に入ったことで、完全に自分の居場所を見失った。
  地図で見る以上に津嘉山の住宅地の通りは入り組んでおり、
  地図に記載されていない小路もあるようだった。
  細道に重なり合う軒先や樹木の陰になり、高津嘉山の位置もよく分からない。
  ただ、太陽だけを目印に南へと向かえば、
  やがて、県道128号線に出ることだけは分かる。


  あえて急がずに、旅行者の分をわきまえつつ、町に流れる時間に身を委ねる。

  現在に溶け込めば、暑ささえ忘れることができれば、心地よいそぞろ歩きで、
  戦世の昔を思えば、暑さをも追体験の一つと思えば、一歩一歩が心を揺らす。



  弾痕が残る石塀は、今、目指しているその場所だけであるとしても、
  その周囲も、同じ歴史を見てきたことは想像に難くない。

  「艦砲で破砕されなかったからこそ、その石塀は、白兵戦の証言者という役割を
   今日まで果たしてきたのかもしれない」

  そんなことも考える。

  「偶然が、石塀や瓦やガジュマルのその後を左右したように、人の命や運命も左右したのか」

  「いや、偶然に見えても、やはり、それは、眼に見えない不特定の他者への害意が起こしたもの」

  目に入ってくる穏やかな情景とは相容れない想念が、頭の中で混濁する。




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  やがて、時間が止まったかのような視界の彼方に、車の往来が見えてくる。



  金城商店は、その看板からは長くアメリカ世だった昭和の香りを、
  屋根の上の真新しいシーサーからは平成の香りを漂わせながら、静かに佇んでいた。

  しばし木陰で休んでから、歩いてきた通りの一本隣の通りを、太陽を背に北へと向かう。

  目指した場所、石塀にはすぐに辿り着いた。




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  弾痕の作る陰影は、夏の陽光に照らされる周囲の風景の中で、十分すぎるほどに深く、
  最深部から放射線状に歪な円を描いていた。
  それら、大小さまざまな円の周囲には、より鋭利な、深い刺し傷のような空洞が点在する。

  炸裂する敵意と、貫通する敵意は、石塀に向けてではなく、人が人に向けて放ったもの。
  一人の人間としてそれを受けた瞬間に、戦闘員と非戦闘員という区別は意味を失う。
  戦闘の只中に残らざるを得なかった、逃げることもできなかった弱者を想う。



  スズメたちが梢から電線へと飛び移り、また、舞い戻る。



  数多くの戦跡と違って、この場所で繰り広げられた相克の記録を目にしたことはなく、
  ただ、物言わぬ質感と対峙するしかなかった。

  静穏な今の生活の営まれている一角で、
  訪れる者が、静かに何かを感じ取り、想うしかない。




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  静かなまま、大切に残していくべき場所であり、時間の流れ。

  周囲の風景や生活は、しかし、時に風化よりも早く、移ろっているという。






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  初めての沖縄で、初めての戦跡、八重瀬岳麓の「白梅学徒看護隊之壕」に向かった時、
  早暁、東風平経由・糸満行のバスで津嘉山を通過していた。
  あの雨の朝とは違って、空は青く、乾いた道は白く反照していた。
    

-2009/6/29 南風原町 津嘉山-


  ■南風原文化センター(旧文化センター)の記憶
  ■沖縄陸軍病院南風原壕群20号の記憶


2010-06-06

オキナワ狂想譚 ~ ふたつのシナリオ

  
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 《シナリオ1》

  ゆきお 「くぬひゃー・・・」
  なおと 「・・・?」

  ゆきお 「わったーシマに入らんけー!」
  なおと 「はっさ!でーじわじわじーしてから」

  ゆきお 「たっくるさりんどー!」
  なおと 「でーじなってる!?」

  ゆきお 「・・・ちょっと、浦添まで行ってきましょうねぇ。『お笑い米軍基地』、あるやっさ』
  なおと 「あいえな~!・・・まだ、朝やし!」

                                                     (完)




 《シナリオ2》

  ゆきお 「おきなわの負担軽減、対等な日米関係」
  なおと 「お、やる気ですな。
       ・・・とりあえず私は、国家戦略なんとかかんとかの方を」

  ゆきお 「ふてんまの移設先は国外、最低でも県外」 
  なおと 「大丈夫ですか。まあ、選挙の時に言ってましたよね。
       ・・・え?・・・財務省も私がやるんですか?」

  ゆきお 「へのこの海を埋め立てることは、自然への冒涜」
  なおと 「いや、しかしですね、おかだくんも、きたざわくんも、まえはらくんも、ひらのくんも、
       心配してますし、正直、どうしたらいいか分からないって。
       ふくしまさんも、なかいまさんも、いはさんも、いなみねさんも、約束は守ろうねって。
       そういえば、おばまさんにも、なんか、約束してましたよね。
       ・・・いや、まあ、私は副総理として、内閣を支えますけど」

  ゆきお 「やっぱ、辞める。やーめた。みんなが聞く耳を持たなくなったもん」
  なおと 「えっ!ちょっと、突然すぎませんか。はぁ、おざわさんも一緒に、って。
       ・・・あ、だから、そんな、『日米、日中、日韓のことをしっかり』ってねぇ。
       そんな、メモ一枚で済む話じゃないでしょ!」

                                                     (菅)




   そんな、メモ程度で、中途半端な引き継ぎで、既定路線を踏襲させられるくらいなら、
   いっそのこと白紙で丸投げしてもらった方がましだったのでは、などと思うのですが。
   あ、いや、それは、昨今、現実に政治の世界で起こっている話であって、
   本編のマヤーの物語とは一切関係ございません。

   ついでに、《シナリオ2》末尾の「完」が「菅」となっているのは誤植ではございません。



-2009/6/27 那覇市 ~「お笑い米軍基地5」浦添公演の日の朝-

  
  
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