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2010-05-25



緑のトンネル、丘の下、坂の下

  
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    首里の高台の朝、木々の間から、西の方角に見えたのは、
    安里の丘(シュガー・ローフ)や、煙霧に霞む海だったのだろうか。



    65年の歳月を隔てて、この推察は、しかし、いくつか検証せねばならないと思う。



    まず、木々はおそらく、「艦砲の喰い残さ」程度しか残らず、
    焦土の中、絶望的なまでの360度の視界が開けていたのではないだろうか。

    日本軍の司令部は、その視界を目にすることはできたのだろうか。

    八原高級参謀は5月24日、北飛行場の方向に火の手が上がるのを目撃している。

    この火の手は、日米双方の記録から、
    熊本を飛び立ち、読谷の北飛行場へ強行着陸を行った、
    義烈空挺隊の「特攻」によるものと思われる。

    米側の記録では、「23:30、伊江島の方向から低空で進入」とある。

    漆黒の中の、戦野の記録。



    そして、首里で、沖縄で、太陽の下に身をさらすことは、
    もはや、不可能なことだったと思われる。

    白昼、いや、昼夜を問わず、この坂を駆け下り、駆け上ったのは、
    壕内の司令部へと戦況を伝える学徒兵たちだったのではないだろうか。
    あるいは、逃げ惑い、行き場を失った避難民。



    360度の混沌と絶望に囲まれた地下壕内で、作戦図面と大本営を見ていた司令部は、
    南部を、南へと向かう避難民を、見ることはなかったのか、見ようとはしなかったのか。

    日本軍の司令部は、白昼、その視界を目にすることはできなかったのだろうか。



    混沌と絶望の跡を、今は緑が覆い、
    西へと下る坂は、坂のまま。

    坂の向こうに、朝の街。
  

-2008/3/27 那覇市 首里山川町-



 【2010. 5.26 補記】

 以下の史料を紐解くと、
 「太陽の下に身をさらすことは、もはや、不可能なことだったと思われる」という上述の推察も改めねばならないと思う。
 艦砲は、太陽の下のみならず、昼夜を問わず飛来していたことが分かる。
 5月25日に南風原の陸軍病院に撤退命令が出る、その以前の記録である。

 そんな戦野を、人々は昼夜を問わず、彷徨う。
 そして、季節は梅雨。


  「一日2回の飯あげは、最も危険なものであった。昼夜、艦砲射撃が続くが、それがやむ時間も
   あった。午前4時と5時の間、午後6時と7時の間の約1時間である。その間に飯あげ・・・」

(出典)

 『南風原が語る沖縄戦』
  (南風原町史 第3巻 戦争編ダイジェスト版)/南風原町史編集委員会
   
  
  

2010-05-19

うちなーバス旅情 107番・108番

  
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     午後3時過ぎ、「糸満市場前」から乗った108番のバスを降りたときは、
     午前に訪れた「轟の壕」のことも想いながら、
     さらに、これから南の果てへと向かおうとする道を想いながら、
     喜屋武岬までの道が描かれた地図と、目の前の光景とを交互に見ていたので、
     その光景の中にあった、このお店と、その看板は目に留まらなかった。



     陽も傾いて、どぅしぐゎーとの出会いがあったりした喜屋武岬からの戻り道、
     ニンジン畑や、古い石敢當や、書道教室の窓一面に飾られたワラバー達の習字や、
     石壁に長く伸びる自分の影など、「今」を歩く中で、何もかもが穏やかに映る目には、
     このお店と、その看板は、この集落の「守礼門」であるかのように飛び込んできた。



     時刻表を見ると、糸満へ向かう107番のバスはしばらくなかった。
     小波蔵か名城あたりまで歩けば、82番も走ってくるかもしれない。
     時間にしばられない、ゆったりとした夕暮れ時。

   
     そんなゆったりとした時間と、西日だけに満たされた広場。


     このお店で、便箋と封筒を求めて、広場のどこかで手紙をしたためるのもいいが、
     おそらく、隣の郵便局の窓口はもう閉まっている。


     いや、そんなことは後から考えた理屈であって、
     実のところ、目は「さしみ」に釘づけだった。


     それなのに、「さしみ」を求めて、この店を訪れなかったわけは、
     ビールを売っている気配がなかったから。
     ビールがあったとしても、店の前のベンチのカップルのゆんたくが終わりそうになかったから。

     そして、喜屋武岬で出会ったどぅしぐゎーと、糸満で飲むという約束を交わしていたことを、
     その時間が迫っていることを、西日に光る腕時計が告げていたから。


-2008/3/20 糸満市 喜屋武-



2010-01-30

琉球石灰岩が積まれた日

  
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  真栄平のバス停から、「南北の塔」を目指す。

  家並を縫うように、幾筋も延びる細い坂道を登って、
  3万分の1地図だけを頼りに、ここまでたどり着けたのは上等か。

  やがて、ソフトボールなどできそうな広場に出て、周囲をぐるりと見渡して、
  見通しの良さとは裏腹に、自分の居場所と進むべき道が見通せずに、
  やはり、あそこで道を尋ねようと、登ってきた坂道を少し引き返す。

  公民館だったか、コミュニティ・センターだったか、
  開け放たれたガラス戸の向こうで、机の分厚いファイルと向き合っているご婦人に声をかける。

    ついさっき立っていたあの広場の、
    その近くに見えてくるはずの畑、ここにはネットが張ってあって、
    その斜め前にタンクが、あ、これは農業用に雨水を貯めるもの、
    その先に太い道と細い道の分かれ道があって。

  小さなメモ用紙いっぱいに描かれた、柔らかな曲線。
  説明してくださるお口ぶりと同様に心温まる、手づくりの絵地図をいただく。

    ありがとうございました。
    無事にたどり着けました。
    戻ってきて、前を通った時に声をかけようと思ったのですが、
    ちょうど、お急ぎで車で出かけられるご様子でしたので、そのまま失礼しました。



  その後、「南北の塔」にたどり着くまでの道中と、
  その間に、もう一度、道を尋ねた方々の話は、また別の機会に、
  南部の戦跡を巡った記憶のひとつとして、整理して書きたいと思う。



  約2年の歳月が流れても、そんな、人とのふれ合いの記憶は色あせない。
  交わした会話や、ひとりで歩きながら考えたことも克明に覚えている。

  その一方で、約2年の歳月を経て、写真を見返していて初めて気づくこともある。
  例えば、この家並の、石塀の礎のかたち。

  上から三段積みの、長方形の切石。
  その下の、琉球石灰岩の石積み。
  この二層構造は、「時間の空白」を包含しているのだろうか。

  それぞれの石の層に去来した歳月は、旅人には読み取れない。

  もしかすると、沖縄ではどこでも見られる光景、様式なのかもしれない。
 
  しかし、この土地に吹き荒れた災禍を思うとき、
  破壊とその後の復興の中に、「時間の空白」が生まれたのではないか、
  そんな風にも考える。

  琉球石灰岩の石積みだけは、災禍をくぐり抜け、辛うじてその姿をとどめたのだろうか。
  65年前よりさらに昔の先人の造形が、もしも残ったのだとしたら、
  それは、この土地に戻れた方々にとって、ひとすじの希望だったかもしれない。  

  いや、すべてが破壊し尽くされ、すべてが無に帰したむき出しの大地に、
  琉球石灰岩をひとつひとつ積むところから、失われた生活の土台を再建し、
  やがて、時を経て、徐々に石塀を重ねていったという痕跡なのかもしれない。

  写真を見返していて、歩きながら思いが及ばなかったことを、今、想う。


-2008/3/19 糸満市 真栄平-



  阿波根昌鴻さんの著書を読み、
  Coccoの「ジュゴンの見える丘」を聴いたりしている今日この頃。

  行くべき場所が見えてきた。歩かないと見えないものが見たくなってきた。
  また、歩きたくなった。


2010-01-08

うちなーバス旅情 34番

  
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  午前1時40分、那覇バスターミナルはひっそりと寝静まっている。
  そんなバスターミナルの界隈を歩く人影もほとんどない。



  「安里から国際通りを抜けて、泉崎まで、
  ふつうに歩けば何分くらいの道のりなのか。

  ふつうというのは、だから、つまり、
  沖縄最後の夜だというので、ずいぶんと長い時間、飲み続けた足どりで、
  そして、何度も立ち止まっては、虚ろに漂う景色に名残を惜しんだり、なんていう、
  要するに、そんな、ドランクでセンチメンタルなロスタイムを除けば、という仮定。
  いや、昼間は昼間で、あの人混みの中を歩くわけだから、
  それなりに時間がかかるわけか。

  しかし、今はやはり深夜なのであって、
  歩いている人はいないし、明日には、自分もここにいないわけだし、
  好きな場所で立ち止まって微笑んだり、
  好きな場所でため息をついたりしてもいいってわけ。
  
  休息のじゃまはしないから。

  

  もう、10日も前になるか。


  
  那覇に着いてすぐ、「波布食堂」で、噂どおりの「肉そば」を食べて、
  そうか、あれが沖縄で最初の食事だったな、午後遅くの。
  それで、翌朝のバスが早いっていうんで、バスターミナルの下見に来たんだった。
  階段を登ったり降りたりして、何となく三角形をしているらしいというのが分かって、
  ともかく、明日、乗るバスの時間も、経由地も確認した。
  まあ、天候次第という条件つきだったけど。

  で、せっかくだから、「国際通り」という場所を、ちょっと歩いてみようとしたんだったな。

  ところが、だ。
  いきなり、道に迷う。しに方向音痴。でーじ、だっけ?
  いや、ちょっとした外出のつもりだったから、地図を持たずに歩いていたんだけど。
  それにしても、沖縄で、那覇で、一番、賑わっている場所に出られないなんて。
  久茂地川に出て、また、ターミナルに戻って、なんだか、細い道を行ったり来たりして。

  そうそう、コンビニの「Coco」がある通りに出る時、交差点におじさんがいて、
  ひっきりなしに出入りするバスと、ターミナルを出入りする人たちの、
  まあ、両方の交通整理をしていたんだ。笛を吹きながら。
  そのおじさんと、何度も顔を合わせてしまったりして。
  さすがに、「国際通りってどこですか?」なんて、訊けないよな。
  いや、別に訊いてもよかったか。

  小雨もぱらついてきたし、次の日からの行程を考えると飲みに出るという気分でもなかったし、
  そうだ、リュックに詰め込んで持ってきた資料を、次の日から回る場所の資料を、
  宿に戻ってもっと読んでおかないと、ということを思い出したんだった。

  いや、しかし、「肉そば」はすごいな。
  ポークおにぎりと魚の天ぷら、沖縄で最初の夕食は、スーパーのお惣菜で十分だった。
 


  あれが、もう、10日も前になるか。



  次の朝は、降ったりやんだりで、蒸し暑かった。
  でかいリュックを背負って、宿からバスターミナルまで歩くだけで気が滅入るような天気。
  ていうか、まだ、空も街も真っ暗だったか。
  真っ暗な空から、雨粒が落ちてきていたな、街灯に照らされて。

   「雨がひどかったら、富盛には寄らずに糸満へ直行する」

  そういうリスクヘッジも考えてきてはいたんだけど、
  それだったら、富盛まで行くだけ行って、バス停の屋根の下で、
  次のバスが来るまでの間、空を見て考えればいいってこと。

   「あの年の酷暑や雨に比べれば、三月の小雨なんて」

  そういうことも考えていた。
  あの年のことは、資料や写真でしか知らない。
  だったら、少しでも体感すればいい。
  体感する?
  その程度のものじゃないと分かっていても、やらないよりはいい。
  分かっている?
  分からないから、見に来た。歩きに来た。


  6時13分発、東風平経由・糸満行き、34番のバスは、
  最初の乗客が近づくと、ドアを開け、エンジンを吹かし始めた。

  でかいリュックを背負ったやつが、運転手さんの真後ろに座って、
  発車までの間、あれこれしゃべり始めたりしたもんだから、
  「こいつ、内地からだな」 なんて、思っただろ?


  ここから、本当の旅が始まったんだったな。


  それから、毎日のようにバスに乗った。
  歩いては、また、バスに乗る。また、歩く。
  歩き疲れて、シートで眠ろうと思った時も、結局、ずっと窓の外を眺めていたよ。




  歩き疲れたわけではないんだけど、
  やっぱり、今夜はそろそろ、さんぴん茶をがぶ飲みして、
  って、こういうのも今夜が最後だな、
  とにかく、寝ないといけない。

  明日、那覇空港を飛び立つ。

  たぶん、明日はもう、バスには乗らない。
  なんだか、「とても、お世話になりました」 なんて言いたい気分で、
  今、ここに立っている。

  今日は方向音痴でも、迷子でもないぞ。
  誇り高き酔っ払いの、万感の想いを込めた深夜徘徊だ。


  それにしても・・・

  驚いた、っていうか、ちょっと、笑ってしまったな。
  最後に顔を合わせるのも、34番だなんて。

  明日の、いや、もう今日か。
  今日の始発だな、きっと。6時13分発の。


  また近いうちに、津嘉山まで行く用事ができたから、
  その時には、また、世話になるよ」


 P.S.
  「糸満に、朝一番に着くバスだって、宣伝しておくよ。89番には悪いけど。
  まちぐゎーで食べるアチコーコーの島豆腐は最高だよな!」

-2008/3/27 1:44 AM-



2008年3月18日、34番・東風平線に乗車して以降の旅程については、以下に記したとおりです。

 「八重瀬岳の麓で」 2009-06-03
 「初めてのシーサー」 2009-06-15


2009-12-20

グスクへの道(1)

初めて座喜味城跡に立ったのは、2008年3月25日のことでした。

そして、その日まで私は、琉球王朝やグスクの歴史には、
まったくと言っていいほど無知のまま、沖縄と向き合っていたのでした。



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読谷補助飛行場跡や読谷村役場を望む




座喜味を訪れる数日前、
戦世を辿る10日間の旅の前半、南部を巡る行程を終え、
ちょうど折り返し点の日に、南風原の陸軍病院壕を訪れました。

後半は読谷村や嘉手納町を中心に、基地のある日常も含めて、
中部を見て回るつもりであることなど、職員の方と話をしていたところ、

 「ぜひ、座喜味のグスクを見てください、見る価値はあります」

と勧めていただきました。


当初の予定に、実は、座喜味城跡も入っていました。
しかし、その目的はといえば、

 ・ そこに立てば、戦争で南部と北部の命運を分けた沖縄本島の地勢が一望できる
 ・ 読谷補助飛行場跡や楚辺通信施設跡など、読谷村の歴史もまた、俯瞰できる

という、やはり、戦世やアメリカ世を辿る旅の視点に絞られていました。
読谷村内に数多く存在する戦跡を巡る中の一つという位置づけでした。



ただ、南風原文化センター(移転前。当時は南風原小学校の向かいでした)を訪れた際、
その展示物を見る中で、

・ 戦争に関する事象を知ることも大切ではあるが、それだけで十分ではない。
・ 平和であった時代の暮らしや民俗、伝統も、併せて知ることによって初めて、
  「失われたもの」、「守らねばならないもの」の本質が見える。

そういうことに気づかされたところでした。
その後の歩みを少し変えようかと、そう思い始めていました。



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南風原での経験を生かし、もっと視野を広く持とうと思いながら、
読谷村を二日にわたって歩きました。
そして、当初は、『読谷村の戦跡めぐり』という
冊子を入手するのが目的であった読谷村立歴史民俗資料館は、
南風原文化センターと同じように、様々な視座や刺激を与えてくれました。

資料館の中で初めて、グスクの歴史、琉球王朝の歴史、
古代から現代に至る民衆の生活の諸相、
さらには、護佐丸、阿麻和利という人物と出会うことになります。

予定した時間を大幅に超えて、資料館を後にし、
松に覆われた道をグスクへと登っていく時には、
たった今、心に刻んだばかりの歴史ロマンに胸がときめいていました。



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やがて、視界が開け、360度を遠望できる座喜味グスクに立ちました。
想いは時代を行き来しました。

そして、長い歴史の重みを感じることで、より一層、戦争による膨大な損失に心を致しました。
当然、最大の損失とは、人の命の連鎖、そして、地域共同体の紐帯の断絶です。


そんなことを考えた座喜味城跡は、
この後、グスク、戦世以前の沖縄、琉球の歴史と向き合う第一歩となった、忘れられない場所です。



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サーターグルマ。サトウキビの圧搾に用いた農具。




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「永和の塔」。集落の数だけ、いや、それ以上の慰霊の塔がある。屋号も刻まれる。




(余談)

資料館に併設されている美術館も見学させていただいた際、
私の酔狂な質問に始まる、職員の方とのこんなやり取りもありました。


 「抱瓶(だちびん)を、実用品として、実際に泡盛の携行に使いたいのですが、
  皆さん、どのような形で持ち歩かれていたのでしょうか?」

 「往時、どういう使い方をしていたかという確かな記録は、
  少なくとも、写真では見たことがないですね」

 「資料館で・・・、あの・・・、洗骨についての写真を拝見したのですが。
  たしか、1950年代にはやめてしまわれたという・・・。それよりも前に?」

 「それよりも、ずいぶんと前でしょうね、抱瓶が実用品としての歴史を終えたのは。
  ご存知かと思いますが、今は、花器をはじめとする美術品、民芸品といったところでしょうか」

 「そうでしたか・・・。泡盛を腰に抱いて、沖縄の野道を歩き回るのが夢だったのですが」

 「まあ、自己流で、お好きなやり方で身に付けてみられるのもよろしいかとは思いますが(笑)」

 「アウトドア・グッズの店で、何かいい装具がないか、物色してみましょうか(苦笑)。
  しかし・・・、昔の人はどんな風に使っていたんでしょうねぇ。荒縄で腰に・・・?」

 「もし、新しい使い方を考案していただければ、それは、うれしいことです」


-2008/3/25 読谷村-



抱瓶を腰に沖縄を歩くという夢は、現在までのところ、
二合瓶で間に合わせてしまっております・・・。

どなたか、よいお知恵を授けてはいただけないでしょうか。


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