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2009-01-31



タイヤと草とSPAMと未来


草木も生えないと言われた傷ついた大地を、こんな自然のたくましさが甦らせてきたのだろうか・・・。


数億年の長い時間(とき)の中、地球の鼓動に呼応して、連綿と生命を繋いできた自然とその摂理。
一瞬のうちに大繁殖し、一瞬のうちに地球を壊してしまいかねない存在になった人間とその増長。

こんな場所に生きる寄る辺を見つけた草のたくましさに、微笑む。
こんな場所に責任と倫理と尊厳を捨てた人間の傲慢さに、憤る。

今日のところは自然の力が優勢のようだ。遠からず、この古タイヤも土に還るかもしれない。
これまで、人間の愚行をずいぶんと帳消しにしてきてもらってきたように。

しかし、その関係がいつ、ひっくり返るか分からない。
人間はそれだけの力を手にしてしまった。
人間はそれだけ何かを見失いつつある。
草さえ生えなくなるほどに、人間のタイヤはその轍(わだち)で大地を痛めつけてはいないか。


この先も、自然は今までのように、人間の愚行を帳消しにしてくれるかもしれない。
しかし・・・、その時、地球上に人間は存在していない・・・、かもしれない。


今夜、SPAMの青いラベルを剥がし、分別し、金色の缶だけを金属ゴミの袋に入れた。
ささやかなる、責任と倫理と尊厳の固守、そして、大勢に影響のない、頑ななこだわり。
とりあえず、市役所の分別ルールを、そして、人間を、信じてみる。

2009-01-30

平和を想い、願う十字路


 「南風原の小学生が登校途中に不発弾を拾い、学校に持ち込んだ」

 このお昼のニュースを見ながら、私は、兼城十字路、黄金森、陸軍病院壕、南風原文化センター、飯あげの道・・・、昨春訪れた場所を次々と思い出しました。
 そして、とっさに、南風原小学校――壕に移る前の陸軍病院が置かれた南風原国民学校がそこにあったということが想像できなかった――の現在の平和な光景が頭をよぎりました。
 
 アナウンサーの口から発せられたのは、翔南小学校・・・。沖縄を旅して以来の習慣で、何か気になるニュースに接すると、すぐに地図を開いて場所を確認します。南風原町喜屋武。南風原小学校とは目と鼻の先です。
 そして、喜屋武といえば、沖縄戦の最中、そこには病院壕の炊事場があり、そこから壕まで、丘を越えて命がけで食事を運んだ小径が「飯あげの道」だった・・・。


 とにかく無事でよかったです。


 胸をなでおろした時、以前から気にかかっていたことを思い出しました。

 「そういえば、南風原文化センターの移転の件、どうなったんだろうか」。

 悲しい歴史とは逆に、私の旅は、摩文仁の平和祈念資料館、平和の礎から始まり、南部戦跡を巡り、「死の十字路」を経て、嘉手納、読谷方面という順に、島尻から北へと向かう形になりました。ちょうど旅の中間点で、南風原町を訪れました。

 南部戦跡を歩く道程で、私は前もって調べていた史料を手に、いくつかの壕の近くにも立ちました。しかし、そこは、然るべき案内者やガイドもいない旅行者が立ち入る場所ではないと心得ていました。たとえ真摯な気持ちであろうとも、そこに眠る人、その場所を想う人の心の静穏を破ってはなりません。加えて、歴史遺構の保存・保護、私有地への立ち入りのマナー、わが身の安全ということも。


 「沖縄陸軍病院南風原壕群20号、一般公開開始」という情報は、偶然、ネットで見つけました。公開されている他の壕の多くは、見学を修学旅行など団体に限定しているのに対し、南風原壕は個人での見学も受け付けていただけました。その理由は、・・・実際に入壕し、以下に記すようなお話を現地の方に伺って納得できました。

 そして、同時に知った南風原文化センターを午前中に見学し、午後、病院壕を見学する予約をしました。事前に連絡を取り合った文化センターの方は「小さな施設ですから、あまり時間はかかりませんよ」とおっしゃったのですが・・・。


 その展示内容はもとより、展示の仕方に私は圧倒されました。いや、正確には、最初は「まさかそんなはずは・・・」と思いながら見ていました。発掘された戦時中の出土品の数々が、そのまま、ケースに収められることもなく、手を触れることのできる状態で目の前に存在しているのです。

 「よかったら触ってみられてもいいですよ」
 長時間、戦史の展示室に立ち尽くす私に、センターの職員の方が声をかけてくださいました。
 その質感を指先に感じることで時代を超えて伝わってくるものがあるという気持ちと、そのほとんどが「遺品」である事実の重さとの間で、私はしばし逡巡してしまいました。

 「あ、でも、これはやめときましょうね。私も触ったことありません。不発弾だったら爆発しますから」
 笑うに笑えないジョークの傍らで、艦砲弾と思しき錆に覆われた―おそらく私の体重の比ではない重量の―金属の塊が、鋭利な先端を天に向けて屹立していました。

 この職員さんとはかなり長い時間、お話しをさせていただきました。戦災から避難する住民の写真の中に、この方と血縁のある方も写っているということも聞きました。温和な話しぶりの中にも、身近に戦争を実体験した方がおられる重みが感じられます。
 やがて、文化センター設立の歴史にまで話は及びました。元々は町内の学校のための給食センターの建物であったとのこと。
 「そのせいなのかな。開設当初から、天井が湿気で傷んでいるみたいで・・・」

 たしかに小さな施設でした。そして・・・。
 施設の実情を見て、また、私個人の意見として、大人数の団体での見学の受け入れは難しいと思いました。そして、多くの見学者でごった返すようになると、上に書いたような、性善説というか、各人の良識を信じた展示の仕方も難しくなる・・・、といった事態も起こらないとは限りません。
 多くの人に訪れて、見て欲しい、それに値する施設だという気持ちと、ひっそりと静かな時間を過ごしながら歴史と向き合える場であって欲しいという気持ち。時間が経つにつれ、徐々に後者の気持ちが強くなっていきました。

 私たちが話を続けている最中にも、地元の小学生らしき子どもたちが、顔見知りのおじさんに挨拶をするかのように受付を通り抜け、中へ入っていきました。


 「センター設立の趣旨は、地元の子どもたちの平和学習の場です。でも、戦争に関する資料だけではなくて、それ以前の、平和な時代の南風原の歴史、民俗、文化にも日常的に接することができる場として活用して欲しい。遊びにくる感覚で。だから、三線でも、壕からの出土品でも、実際に展示物に触れることができるようにしているんです。ホールにはピアノも置いてあって、音楽会を行ったりもするんですよ」

 「摩文仁の平和祈念資料館とは、また違った役割があるわけですね。そういえば、摩文仁の資料館で手を触れることができたのは、中に戦時中の水が入ったままの水筒、その一点だけでした。頑丈なアクリルケースの中の・・・」

 「これは南風原だけではないんですが、まだまだ地面を掘れば、次々と遺品や遺骨が出てくるのが実情なんです。このセンターの2階も、整理が追いつかないままの出土品が一杯で・・・」

 「えっ?2階にもまだあるんですか?」

 「はい。・・・でも実は近々、センターを新築して、移転することになっているんです。今年の秋頃には一旦休館となります。移転場所はすぐ近くで、もう少し病院壕に近くなります。しかし・・・、それまでに展示物、収蔵物、そして、2階の出土品を整理して、引越しの準備をしないといけないんですけど、これはたいへんだな、と(苦笑)」


 病院壕に入壕する予約の時間が迫ったので、2階には上がらず、一旦、文化センターを後にして、私は入壕口へ向かいました。・・・この時の話はまた後日。
 ただひとつ、病院壕と、文化センターの展示物、収蔵物に共通して感じたこと、そして、おそらく南風原の方々も直面している問題について。それは、保存と、平和のための活用(公開)のどちらを優先するかということです。
 上に書いたように、「沖縄陸軍病院南風原壕群20号」の見学は個人でも申し込めます。逆に、入壕者数を制限しています。それは、この一帯の地質が非常に脆弱なため、風化や劣化に細心の注意を払わなければならない、という事情があってのことなのです。人がその場に立ち入り、往時を偲んで平和に想いを致す貴重な体験は、一方で、重要な歴史遺構としての場を少しずつ傷つけてしまう損失と隣り合わせなのです。

 病院壕は外界の光の一切差し込まぬ漆黒の闇でした。外に出て、眩しい太陽の下、ガイドさんや発掘調査に携わっておられる学芸員さんともお話をさせていただきました。その後、何度も立ち止まりながら「飯あげの道」を歩き、国道に出て、ようやく、現実の世界に戻ってきたような気がしました。



      病院壕を出て、「鎮魂と平和の鐘」を静かに鳴らし、「飯あげの道」へ。
      途中までは舗装されていない山道を歩く。


 「63年前の今日も、こんな太陽がハイビスカスを照らしていたんだろうか」

 再び文化センターを訪れ、残された時間、2階の出土品と静かに向き合いました。
 そして、最後にもう一度、「人の一生」を描いた壁画――センターの展示の半分は戦時のものではなく、心温まる、平和な時代の南風原の生活に関するものでした――の前に立ちました。誕生前から、そして死後までも、人生の節目ごとに様々な儀式を行う様子が描かれています。マブイをよく落とす幼子、ニービチに頬染める夫婦、めでたくカジマヤーの祝福を受けるオジィ、オバァ。家族や周囲からの思いやりや愛情、心と心のつながりに囲まれ、健やかに、幸せに、生まれ、生き、天寿を全うする。現代日本に生きる私の目には眩しくさえ映る情景。

 「戦は、そんな、みんなから大切にされてきた「一生」を、突然断ち切ってしまったんだな」


 ずいぶん・・・長くなってしまいました。

 今日、ネットで調べたところ、南風原文化センターのサイトに「今年の1月から休館、11月に新館オープン予定」の旨、記載されていました。あの時の職員さんの、引っ越しのご苦労を想いました。

 県外の、そして、町外の人間の勝手な希望ですが、新館に移って以降も、私が訪れた時のような場所であって欲しいと願います。
 「ハコモノではなく中身」という話は全国各地で、あまり良くない意味で使われます。しかし、この南風原文化センター、とりわけ、元給食センターであった南風原文化センターは、建物は小さく古くても、素晴らしい「中身」のある場所でした。
 そして、僭越ながら、その「中身」という言葉には、展示物、収蔵物のみならず、センターや壕でお会いできた方々も含まれています。オジィ、オバァから平和への想いを受け継いだ、私と世代の近い方々から多くのことを教わり、また、旅への示唆をいただきました。

 南風原町。前半の南部戦跡巡りから、後半の基地と戦跡のある街への旅路の途中に立ち寄った、出会いに満ちた十字路でした。


 (おことわり)
 文中の会話の部分は、私の一年を経過した記憶に基づくものです。よって、正確さに欠ける部分、私の責による思い違いが含まれている部分等もあるかと存じます。その点、ご了承ください。

2009-01-29

しあわせになるように

 「何をやっているときが一番幸せか」

 こんな問いに即答できず、いくつもの候補の中からどれを挙げようかと迷うということは、幸せなことだと思います。

 私にとっての一番幸せな時間のひとつ。それは、CDを部屋中におっ広げ、ヘッドホンをし、歌詞カードやジャケットを眺めながら、時間の経つのも忘れて、ためつすがめつ聴き入っているひと時です。
 その行動の誘因は二つ。
 一つは、音楽を肴に酒を飲みながら、引きこもり的退行的愉悦に耽溺したい時。
 もう一つは、ある人を思い浮かべながらのプレゼント用に、あるいは、あるテーマに沿ってお薦め音源の選曲をしている時。「この曲上等だから聴いてみようねぇ」「ウリ聴けー、アリ聴けー」・・・ですね。

 前者の方はどうでもいいので今日はスルーします。今日のお題は後者の方で。

 思えば「三つ子の魂百まで」。中学生でジャズ狂いになって以来、生来の凝り性と、「自分が素晴らしいと思うものはみんなも素晴らしいと思う」という大いなる勘違いに衝き動かされ、数え切れないほど、同じようなことをしてきました。
 時代とともにカセットテープがMDに変わり、そして、CD-Rへ。
 内容はといえば、大学の体育祭の自称・音楽監督。初心者向けのジャズ入門。上級者向けの隠れジャズ名曲集。結婚式のBGM。クリスマス・ソング。入院中の退屈しのぎ。そして、留学を終えて祖国へ帰る海外の知人へ「にっぽんのうた」の贈り物。
 頼まれたもの、頼まれもせずに作ったもの。

 本当に自己満足の愉しみなのですが、本当に幸せなひと時なのです。それまで幾度となく聴いていた好きな曲の、新たな魅力に気づくことも、この愉しみの醍醐味です。

 そして、人様にお薦めする以上は、音楽とより一層深く対峙することにもなります。
 ・・・などというと大仰なのですが、即物的な例を挙げると、結婚式のBGMの候補に挙げた清楚で
甘美なインスト曲が、しかし、歌詞をよく調べてみると実は悲恋を歌った曲だったのでN.G.にしたり。
 上記の「にっぽんのうた」の選曲に際しては、ちょうど当時の首相が「美しい国」を標榜していた・・・こととはまったく関係はないのですが、やはり、時代を超えて歌い継がれる、普遍的な「美しい日本語」と思える歌詞の曲を厳選しました。が、厳選したという割には、CD一枚に収まりきれなくなり、結局は
「男性編」「女性編」の2枚組にしてしまうという有様。「自分が素晴らしいと思うものはみんなも・・・」はもはや病気です。

 
 そして、つい先日も、またまたこの愉しみに溺れてしまいました。
 しかし、今回の選曲に際しては、これまでになく熟慮を重ねました。心身が穏やかになる旋律、生命の尊さを謳う歌詞、この世に生まれ出ることに喜びを感じてもらえるメッセージ、そして、なによりもやさしさに溢れていること。
 選曲は、最初から念頭にあった、古謝美佐子さんの「童神」と、普天間かおりさんの「Beautiful Name」から始まりました。そして、以下の曲を選ばせてもらいました。

 アーティスト、作詞・作曲、その他、製作に携わったすべての方へ感謝を込めて(敬称略)。


  Beautiful Name/普天間かおり
  相聞歌/宇崎竜童 & R・U CONNECTION(作詞:阿木燿子)
  Voice of Grace/Lyrico(作曲:Kiyohito Komatsu)
  童神/古謝美佐子(作曲:佐原一哉)
  同じ色の海/ZABADAK(作詞:小峰公子、作曲:吉良知彦)
  小さな空/石川セリ(作詞曲:武満徹)
  ここにいると気分がいい/シューヘー(作詞:長谷川集平)
  祈り/元ちとせ(作詞曲:上田現)
  やつらの足音のバラード/小泉今日子(作詞:園山俊二、作曲:かまやつひろし)
  その時生まれたもの/BEGIN
  キセキノハナ/Lyrico(作曲:妹尾武)
  ホントはみんな/高田渡(作詞:斎木良二、作曲:徳武弘文)
  歩きたくなる径/ZABADAK(作詞曲:上野洋子)
  廻る命/古謝美佐子
  Tomorrow/普天間かおり

 
    ♪人はどうして泣きながら生まれてくる
      すべてはじまったばかりなのに・・・
  

 Beautiful Name はこういう歌いだしから始まります。
 そして、やさしく、徐々に情感を高めながら何度も繰り返される

    ♪しあわせになるように・・・

 このことばを、長い間、私のよき理解者であり、敬愛する相談相手であった方へ。
 感謝を込めて。



2009-01-25

行き交う鳩もまた旅人なり

 24日の書き込みは力が入り過ぎました。ふだん使わないような言葉が自然と湧き出てきたり、それなのに、自分でも何を言いたいのかを見失いかけたり。
 この感じ・・・、ずいぶん昔に忘れてしまった、抑えようのない熱い気持ちの昂ぶり・・・。心わさわさ。
 やはり・・・、本当に・・・、沖縄に、恋してるやっさー!


 今日はちょっとロマンチックに脱力(?)しましょうね。

那覇空港の向こうに沈む夕陽・・・・・・とキジバト

-2008/3/26-


 昨春、沖縄で眺めた最後の夕陽。

 もう十分に、靴が臭くなるほど(帰宅した時、とぅじが家にあげてくれませんでした)歩き回った満足感に浸りつつ、でも、明日、そこから飛び立つことを心寂しく思いながら、那覇空港に沈む夕陽を眺めました。

 本当は・・・、波の上橋から眺めようと思っていたのですが、三重城界隈の行き止まりの防波堤まで迷い込んでしまいました。
 さらに、本当の・・・、本当の当初の計画では、泊大橋の、あの、えりぃ(国仲涼子さん)がスーパーボールを空にかざして東京への憧れに胸ときめかせていた、あの場所に立っているはずでした。

 でも、もう十分でした。日が経つにつれ、心も体も弛緩していた私は、もう地図も持たず、時間も気にせず、ただ、その瞬間、その場所に居ることだけに喜びを感じていました。
 すぐ横の那覇港からはフェリーが出航していきます。

 また、明日から、空港でチェックインした瞬間から、「日常」という名の時間の中に身を置くのか・・・。

 私が遠くを見つめて呆けているのを察してか、キジバトが、目の前を悠然と横切りました。

            「好きな時に、好きな場所へ向かって飛べばいいさぁ」

 そんな囁きが聞こえたような気がしました。
 
 残り少ない時間を、好きな場所で好きなように過ごすべく、私は三脚をたたみ、しばし想いを巡らせた後、薄暮とネオンの刻へと移ろい始めた街へと戻りました。

 「しろま食堂」での最後の語らい。「閉店まで飲むよー!」。4日前におかあさんと約束していました。


 ・・・・の前に、息を切らせて、結局、波の上橋から泊大橋までを足早に歩きました。
 風を切って行き交う車やトラック。オレンジ色の街路灯。港湾工事のクレーン。『ちゅらさん』には登場しなかった闇に沈んだの那覇の海。人影のない歩道と自分の影。

  目的の場所に立つ。

   旅人の叫びをかき消してくれる、海風と喧騒。

2009-01-24

Chega de Saudade 想いあふれて

 どうしようもなく沖縄に行きたい。

 沖縄のことを想わない日はないという毎日、そういう意味では一年中、「行きたい、行きたい」と思っているわけだが、昨日未明からの頭の回転は重症だ。その前夜、欠かさず見ている9時のニュースも見ずに倒れこむように寝てしまった。その反動か、午前3時に目醒める。ウチナー道祖神様の招きか・・・。

 その瞬間から、物事を非常に具体的に考え始めている。行きたい場所ややりたい事が次々に湧き出てきて、1週間とか10日間では収まりきれないような行程表が頭の中に出来上がる。

 おおまかな地理や交通手段は一年前の記憶が鮮明に残っている。路線バスと徒歩の旅にはそれだけで十分だ。

 帰巣本能というべきか、リピーター気質というべきか、昨年行った場所のほとんどを、もう一度訪れたい。風景や空気感まで甦る。その場所に、会いたい人もいる。
 昨年、すぐ近くまで行きながら時間的に断念した場所(昨年もやはりタイトな行程表を作っていたようだ)は今度こそ訪れたい。
 加えて、この一年間の「沖縄愛」によって導かれた、昨年は知らなかった新たな場所からの誘惑も。

 
 もちろん、家族と時間とカネ、折り合いを付けなければならない。すぐに行動へは移せない。

 2泊3日のバカンスとは訳が違う。いや、そういう気楽というか、容易に実現できる旅に満足できればよいのだが。
 どうにも、昨年の旅――まとまった時間、綿密な計画の下で自由気ままに(矛盾しているようだが)、ゆっくりと歩いて回る――を踏襲し、その続編のような旅を描いてしまう。30代最後、「青春の忘れ物探し」だったはずが、不惑を迎えてなお、忘れ物は尽きない。


 しかし、すぐに行動へは移せない、本当の理由は、別のところにあるように思う。

 昨年の旅を、まだ自分の中で完全に咀嚼して、消化できていないような漠然とした引っかかりがどこかにある。それを解決しないことには次の旅に踏み出せないというふうに、自分を抑えて、自分に言い聞かせている。
 そして、その正体は、実ははっきりと認識している。処方箋もある。2、3日もあれば解決できるはずだった。旅を終えてすぐの時には。
 しかし、約一年が経とうとする今日、それはまだ、解決できていない。

 
 私は、昨年の沖縄旅行で出会い、その旅の方向性や意味づけに大きな影響や示唆を与えてくれた人物――その旅をずっと忘れないという意味において、その影響や示唆は一生ものである――へ
手紙を書いていない。感謝と、それ以上の気持ちを伝えていない。
 それが理由、それが引っかかりの正体だ。
 ゆえに、処方箋はただひとつ、手紙をしたためることだ。

 だが、それが、できない。

 定着できないいくつもの言葉が言語中枢を浮遊し、眠れぬ夜には短編小説のような星雲を形作る。
 残像はいつでも鮮明に再生可能で、その残像の中でその人物と私は新たな言葉を交わし、物語を紡ぐ。
 いつも心の中に留まっているのに外在化されることのない想いは、形を持たないまま流転しつづける。
 ピースは散らばっているのにフレームのないパズル・・・。


 「ありがとう」
 その一通の礼状が書けなかった。
 
 「私の旅の中であなたはかくも貴重な存在だった」
 そのことを伝えた上で、心からのお礼が言いたかった。

 そのために、私は物語を書き上げねばならなかった。不遜にも自らを主人公にして。旅の中で何を見つけ、何を感じ、何に覚醒したのか。物語が完成して初めて、それぞれの役割を演じた登場人物へ、その物語における位置づけを明らかにすることによって、手向けるべき言葉が生まれると思った。それが、相手への――今思えば自己満足的な――礼節だと思った。

 そして、物語はいまだ完成していない。そのことが続編に着手することを躊躇させている・・・。

三月の雨は叩きつけるように激しく、時にやさしく碑銘を洗う。

-2008/3/18-


 
 明日の朝、自分で上の文章を見返すのが怖いような気もしますが、そのままアップいたします。

 後段の、いささか混沌とした感情の吐露は、かねてより、何度も書き始めようとした「2008 沖縄旅日記」が緒に就かない理由とも重なります。

 ひとことで言えば、「旅の中の最も重要な出会いほど、相手との関係や私個人の内面を披瀝することが憚られる」ということが常に頭にあるのです。もちろん、ネットマナーという観点からも。
 だったら、その部分だけオブラートに包むとか、カットするとか、場合によっては脚色を加えるとか、いろいろ方法はあると思いつつ。また、それ以外の、これまで少しだけ書いた、もっとお気楽な旅の部分や、自分ひとりで見て感じたことを自己責任で書けばいいと思いつつ。

 ただ、それら出会いはすべて、「命どぅ宝」、戦争、基地といった私の旅のテーマと深い関わりを持つ、単なる旅の思い出では済まされない、とても大切な人とのものなのです。旅の根幹なのです。
 そして、その出会いがなければ、本から得た知識を追体験するだけのために沖縄を歩いた、ただそれだけの、"考えない脚"の漂泊の記になってしまいそうなのです。
 ――これは、冒頭に書いて明らかにしておくべきことでした。

 いやはや、それにしても、不惑にしていまだ、旅の何たるか、出会いの何たるか、そして、ブログって何なの?・・・修行不足のようです。

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