Jump to navigation
港でレンタカーを借りて、まず、この地を訪れた。
標高差70mの急坂を一気に登る。翌日は渡嘉敷集落からここまで、そして、さらにその先の地まで、歩いて行くつもりであった。
(翌日は海が時化て、予定していた夕刻の船便の欠航が決まったため、午前の便で島を出ることになった。この島の地形を自らの足で歩いて体感するのは次の機会へ持ち越しとなった。)

71年前の2月28日を想う。
それぞれが迎える「あの日」の、その一ヶ月前には、こんな空や海を見ていたかもしれない。
また巡ってくる季節。
水を湛える田んぼ、うりずんの候、清明の用意。
当たり前に繰り返してきた営みを、今年もまたと、思うことができたのだろうか。
迫り来る戦世。
南洋の島々からの戦火の報、グアム、サイパンの陥落、海上挺進隊、対岸に見えた「10・10空襲」、軍官民共生共死。
日々の中ですでに、明日の命、遠からぬ災禍を見据えていたのだろうか。
「青少年交流の家」に車を停めさせてもらい、ここから先は歩く。
標高は200mを超える。
「まずは いのち よろこびて」
そんなつぶやきが自然と口を衝いて出る。
今日の日の絶景にひととき、心を解き放つ。
「満6年忌を迎えた昭和26年3月28日、住民集団自決の現地北山(現青少年交流の家敷地近く)で、白玉之塔の除幕式と合同慰霊祭が行われ、戦没者(日本将兵81柱、軍人軍属92柱、防衛隊42柱、住民383柱)の御霊を島守りの神として仰ぎ祭られています。
毎年3月28日を慰霊の日(住民玉砕の日)と定め、本土や沖縄本島から遺族が参列して慰霊祭が催されています。
昭和35年現地西山が軍用地に接収されたため、昭和37年4月19日現在のギズ山に移動し新しく建立されました。」
「昭和二十六年三月、この大戦で犠牲になった方々の慰霊のため、この地に白玉の塔を建立したが、周辺地域が米軍基地となった為に移設を余儀なくされた」
2017-03-28
戦世を訪ねて 2008~2016
港でレンタカーを借りて、まず、この地を訪れた。
標高差70mの急坂を一気に登る。翌日は渡嘉敷集落からここまで、そして、さらにその先の地まで、歩いて行くつもりであった。
(翌日は海が時化て、予定していた夕刻の船便の欠航が決まったため、午前の便で島を出ることになった。この島の地形を自らの足で歩いて体感するのは次の機会へ持ち越しとなった。)
白玉之塔
1945年3月27日から3月29日の記憶がとりわけ深く、刻まれる
眼下の渡嘉敷集落
71年前の2月28日を想う。
それぞれが迎える「あの日」の、その一ヶ月前には、こんな空や海を見ていたかもしれない。
また巡ってくる季節。
水を湛える田んぼ、うりずんの候、清明の用意。
当たり前に繰り返してきた営みを、今年もまたと、思うことができたのだろうか。
迫り来る戦世。
南洋の島々からの戦火の報、グアム、サイパンの陥落、海上挺進隊、対岸に見えた「10・10空襲」、軍官民共生共死。
日々の中ですでに、明日の命、遠からぬ災禍を見据えていたのだろうか。
赤間山(通称「北山(にしやま)」より
「青少年交流の家」に車を停めさせてもらい、ここから先は歩く。
標高は200mを超える。
「まずは いのち よろこびて」
そんなつぶやきが自然と口を衝いて出る。
今日の日の絶景にひととき、心を解き放つ。
白玉之塔は当初、現在地ではなく、これから訪れる場所に建てられた
「満6年忌を迎えた昭和26年3月28日、住民集団自決の現地北山(現青少年交流の家敷地近く)で、白玉之塔の除幕式と合同慰霊祭が行われ、戦没者(日本将兵81柱、軍人軍属92柱、防衛隊42柱、住民383柱)の御霊を島守りの神として仰ぎ祭られています。
毎年3月28日を慰霊の日(住民玉砕の日)と定め、本土や沖縄本島から遺族が参列して慰霊祭が催されています。
昭和35年現地西山が軍用地に接収されたため、昭和37年4月19日現在のギズ山に移動し新しく建立されました。」
(渡嘉敷村公式サイトより)
「玉砕場」とも呼ばれる。集団自決跡地
「昭和二十六年三月、この大戦で犠牲になった方々の慰霊のため、この地に白玉の塔を建立したが、周辺地域が米軍基地となった為に移設を余儀なくされた」
(「集団自決跡地」碑文より。読点は筆者追記)
-2016/2/28 渡嘉敷島(渡嘉敷村)-
Comments
coco wrote:
沖縄の空色、濃くて美しいですね
2017-05-22
16:17

Kohagura Erio wrote:
cocoさん
コメントありがとうございます。
すいぶん時間が空いてしまい失礼しました。
春の沖縄は天気が変わりやすいのですが、
この日は一日中、抜けるような青空に恵まれました。
前夜はかなりの驟雨があったとのこと。
空気も洗い流してくれたのでしょうか。
琉球王府の時代には、この近くのヒータティヤー(烽火台)から烽火をあげて、
およそ30km離れた、本島の浦添や小禄との連絡をしていたとのこと。
いつもこんな天気だったらよかったのでしょうが、
曇りや靄の日には大丈夫だったのでしょうか?
P.S.
返信が遅れてしまったおわびに、ワルミ海峡の夏の青空をどうぞ♪
コメントありがとうございます。
すいぶん時間が空いてしまい失礼しました。
春の沖縄は天気が変わりやすいのですが、
この日は一日中、抜けるような青空に恵まれました。
前夜はかなりの驟雨があったとのこと。
空気も洗い流してくれたのでしょうか。
琉球王府の時代には、この近くのヒータティヤー(烽火台)から烽火をあげて、
およそ30km離れた、本島の浦添や小禄との連絡をしていたとのこと。
いつもこんな天気だったらよかったのでしょうが、
曇りや靄の日には大丈夫だったのでしょうか?
P.S.
返信が遅れてしまったおわびに、ワルミ海峡の夏の青空をどうぞ♪
2017-05-30
00:21
