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2017-02-20



球磨川車窓景、そして、南風原

   
   
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段駅 ~ 坂本駅 11:18



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坂本駅



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坂本駅



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瀬戸石駅



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海路駅 ~ 吉尾駅



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那良口駅付近




 今は亡き旧友がひととき暮らした街、人吉を訪ねた。
 日帰りの短い旅。
 かつて旧友は、この鉄路に乗って熊本と行き来したのか、あるいは、球磨川に沿って、鉄路とつかず離れず蛇行する道を原付で駆けたのだろか。
 そんなことも想いながら、車窓からの景色を眺めつづけた。

 生活の気配の乏しい駅も多かった。
 河原で見た多くの重機や工事車輌に、熊本地震による被害とその復旧を想像した。だがそれは、球磨川の自然回復のために先年、撤去されたダムの、その痕跡を取り除くための工事であることを後に知った。
 山間の冬の日は短く、透明な空気が夕映えに染まることなく薄明に暮れていった。
 それでも、通り過ぎた点景のいくつかに、慎ましく静謐な、長く受け継がれてきた暮らしの温かさを感じた。清流と山の恵みに寄り添う暮らしを想った。




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那良口駅 ~ 一勝地駅 15:50



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鎌瀬駅付近



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葉木駅 ~ 坂本駅



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坂本駅



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坂本駅 ~ 段駅



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段駅付近



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段駅 ~ 八代駅

 

―2016/12/17 JR肥薩線より(八代市 ~ 球磨村)―

 
  


 初めて南風原文化センターを訪れたのは、2008年の3月。
 初めて対馬丸記念館を訪れたのは翌年、2009年の2月(同じ日の夕刻、思うところあって南風原を訪れ、移転のため一時閉館となった旧・文化センターの跡地と黄金森も歩いた)。
 そして、新しくなった南風原文化センターを再訪したのは、2010年の2月。この時、センターの前に建てられている「南風原国民学校学童集団疎開記念碑」と出会った。

 二年ぶりの再会を果たした文化センターの職員さんが教えてくださらなければ、この碑の存在に気づかなかったかもしれない。そして、碑に刻まれた「ヤーサン、ヒーサン、シカラーサン」という言葉の意味を教えてくださったのも、この職員さんだった。

 「学童疎開」という言葉に触れ、すぐに対馬丸のことを思い出した。犠牲となった児童をはじめとする、多くの方々のことを思い起こした。遺影が並んだ記念館で対面した、その多くは幼い面影を残した眼差し。そして、生と死が交錯した漂流。あるいは、救助後にも待ち受けた処遇のこと。
 その一方で、なんとか無事に疎開の地まで辿り着き、そこで戦中(そして、引き揚げまでの戦後の日々)を過ごした方々のことには、その時、想いが至らなかった。「ヤーサン(ひもじいよ)、ヒーサン(寒いよ)、シカラーサン(寂しいよ)」という、ひっそりと呟かれたであろう言葉は、「暗い波間に消えていった叫び」の鮮烈にして悲痛な印象に比して、まだ救いがあるという捉え方をしたのかもしれない。


 疎開できた方々の異郷での境遇は、その後の人生は、どのようなものだったのか。

 疎開先の多くは九州の熊本県、宮崎県や大分県。本土の中では南に位置するとはいえ、冬の寒さは沖縄とは比ぶべくもない。もし、そこが山間の地であったら、底冷えするような盆地だったら。もしも、沖縄から持参した服が夏服だけだったら。ひとつの集落に何人ほどが受け入れられたのか。宿舎は、戦況が逼迫する中での食糧事情は。
 そして、疎開先でも知るところになったであろう、1944年の「10・10空襲」。さらに、1945年3月、ついに始まった沖縄での地上戦の報。戦況。
 沖縄にとどまる家族の身の上を案じる気持ち。幼い児童にとっては「おとぉ」「おかぁ」「おじぃ」「おばぁ」であり、あるいは兄姉。その不安はいかばかりだったであろう。疎開しなかった友人たちのことも。
 
 終戦の後、一年以上が過ぎてようやく引き揚げが許されて郷里の地を踏んだとき、初めて直面する現実に打ちのめされた子も多かったであろう。肉親の死を知ることとなった子、中には一家全滅などにより孤児という運命が待ち構えていた子もいたという。


 今になってようやく、学童疎開のことをもっと具体的に、また、対馬丸のこと以外にも視野を広げ、そして、ひとりひとりの身に起きたことを思い描きながら、辿ることができるようになった。


 そのきっかけは、つい先日の、一本の電話だった。

 「恵里夫は、熊本の坂本村のことは、知ってるかぁ」

 沖縄のことについて様々な示唆を与えてくださり、私の旅路を温かく見守ってくれている、敬愛する師匠のような方からであった。この春の旅で南風原町を再訪し、数日間滞在することを伝えていた。

 「坂本村には、南風原の人たちが、疎開していたはず。調べてみるといいさぁ」

 昨年末、偶然にも、肥薩線に乗って球磨川沿いの景色を見ていた。
 若い頃、熊本市に住んでいたこともあり、その地の風土を多少は思い浮かべることができる。
 先般の熊本地震の際には、坂本村で最大震度を記録した大きな余震もあった。熊本市や阿蘇に比べ、県南の山間部の様子がほとんど報道されなかったこともあり、道中ではずっと、車窓の風景に目を凝らしていた。
 
 
 その道中の印象や、何気なくカメラに収めていた車窓風景に、70余年前の、沖縄から疎開してきた方々の表情や暮らしを重ねてみる。
 真冬とはいえ、山間の日暮れは早い。午後4時を過ぎると、球磨川の川面や川沿いに点在する集落は早々に、山影に入っていた。

 「こんな夕暮れの中で『ヒーサン』を感じ、乏しい夕餉に『ヤーサン』と呟き、そして、夜の寒空の下で『シカラーサン』と涙したのだろうか」

 電話をいただいた後に、ある旅の記録を見つけて読んだ。そして、肥薩線の窓から眺めた風景を重ね合わせて、そのようなことを思った。


 その旅とは、2004年8月、学童疎開から60年の年に行われた、「第11回南風原町子ども平和学習交流事業」。学童疎開体験者10名と、町内の小学生14名を含む、46名の交流団が、旧南風原村の疎開先であった熊本県の坂本村、泉村葉木地区、日奈久町(いずれも、現在は八代市)、宮崎県の西都市、高鍋町、日向市を訪ね、各地で交流を持ち、あるいは旧友と60年ぶりの再会を果たした。また、那覇を出発した日の夜には、奄美大島沖の洋上で、対馬丸慰霊祭も執り行われた。

(参照文献)
 高嶺朝誠「学童疎開調査報告」『史料編集室紀要』no.30, 2005. 3 p.105-118
 http://okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/handle/okinawa/7792



 この春、また、南風原町を訪れる。
 文化センターを訪れるのは四度目になるかと思うが、また、新たな視点で史料に触れ、新たな感慨を胸に刻むことになると思う。
 そして、これまで様々な教えをいただき、この文中に記させていただいた方々にもまた、お目にかかれると思う。
 旅立ち前に一足早く、感謝を込めて。報告かたがた。
 
 対馬丸の悲劇と、南風原町とのつながりから、より深くその実相と全体像を知りたくなった学童疎開。疎開者は沖縄県全体で5,500名にのぼるという。その5,500名にはまた、多く家族がいて、それぞれの戦世。



 なお、日奈久(熊本県八代市)の街には、疎開の折に宿舎として使われた旅館が現存し、今も営業しているようである。坂本、葉木ともども、遠からず、歩いてみたいと思う。
 日奈久からは海が見える。
 

【2017/2/23 追記】
 
 沖縄入りする前に、南風原に関する手元の資料を紐解き、見返してみた。
 その中に、学童疎開についての記述や言及、写真まであった。一度は通読し、映像にいたっては幾度も見返していたはずなのに、その時には深くは記憶に刻まれなかったということか。
 その不覚を受け入れつつ、時が経ち、さまざまな経緯で知ったことが繋がり、生きた知識へと変わり始めたのだと理解したい。

・吉浜忍・大城和喜 他「戦争遺跡文化財指定 全国第1号 沖縄陸軍病院南風原壕」2010 高文研
・はえばるYouth DVD「プロムナード南風原~歴史・文化の散歩道~」2008
 
 
 

2017-01-16

それでも、海と

   
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長い歳月を経て 見えてくるものもある



-2016/12/6 生の松原(福岡市)-



2016-12-09

透灯(あかり)

   
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    慎ましい暮らしの灯りは 温かく
    飾り立てたイルミネーションは 寒い

    冬の朝 光満ちる静寂

    1億5000万km彼方の光源
    風にゆれる重力圏 この星の果て

    果ては近く 愛おしく やがて 限りあり



-2016/12 福岡県 太宰府市-



2016-09-18

それでも、海と

   
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-2016/8 西大分港-



2016-08-09

花 ~ うまんちゅぬ肝心に花を 祈り重なりて

   
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   友の墓と、父の墓を、巡った夏の日の終わり。
   心向くまま、初めて訪れた海。

   風が汗を笑い、光が目を洗う。
   明日を寿ぎ、命凪ぐ。



-2016/8/7 下関市 吉母-



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