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2013-01-04
創作凧、子らに指導 (名護・沖縄)
創作凧、研究重ね子らに指導
自作の立体凧「回転凧」と揚がって降りてくる「フータン」を
手にする比嘉良行さん=名護市済井出の自宅
【名護】「日本の凧(たこ)は世界一きれい。空の美術館ですよ」。市済井出区の比嘉良行さん(86)は自ら考案し、製作した「フータン(風弾)」と直径約90センチの「回転凧」を手に話す。「日本の凧の会」や「カーチベー(南風)凧揚げの会」に所属し、学校や保育所などで凧作りを指導し続けている。
比嘉さんが凧と出合ったのは、台湾の台南市内にあった花園小学校4年生の時。「先輩たちが手作りの凧を揚げているのを見て憧れた」と振り返る。大人になっても、その思いは消えなかった。
戦後、沖縄愛楽園にあった琉球政府立の澄(すむい)小中学校に赴任。保護者や子どもからの要望があり、初めて作り方を指導した。
比嘉さんは「マッタクー(四角い凧)は、下の寸法が短く上が長い。揚げるときれいに見える。昔の凧には絵が描かれていなかった。骨組みのシルエットを楽しんでた」と話す。
定年退職後は凧の研究に取り組み、八重山で行われる全国凧揚げ大会にも出場するようになった。「八重山は六角凧などがあるが島ごとにサイズが違う。島同士の交流がなかったからでしょう」と説明。島の人と同じものを作っては面白くないと「立体凧」の考案に没頭するようになった。
揚がった凧の糸を伝って、もう一つの凧が揚がり、上空でぶつかりあって再び手元に戻ってくる仕掛けの「フータン」などに取り組み、2006年には大賞となる「マンタピア賞」を受賞した。このほかにも「箱凧」「回転凧」、樹木の葉に細工した「ビロウ凧」、「ズボン凧」などユニークなオリジナル凧を完成させている。
妻の美智子さんは「自分が気づかないうちに、いろいろな凧を作っている。揚げるとき見に行くけど、やっぱり楽しいです」とうれしそう。
比嘉さんは「作りやすく、見栄えがよく、あまり走らなくても揚がることが大切。子どもは高く揚がっても喜ばない。自分を追いかけてくる凧が好きなんですよ」と笑顔で語った。(玉城学通信員)
沖縄タイムス

自作の立体凧「回転凧」と揚がって降りてくる「フータン」を
手にする比嘉良行さん=名護市済井出の自宅
【名護】「日本の凧(たこ)は世界一きれい。空の美術館ですよ」。市済井出区の比嘉良行さん(86)は自ら考案し、製作した「フータン(風弾)」と直径約90センチの「回転凧」を手に話す。「日本の凧の会」や「カーチベー(南風)凧揚げの会」に所属し、学校や保育所などで凧作りを指導し続けている。
比嘉さんが凧と出合ったのは、台湾の台南市内にあった花園小学校4年生の時。「先輩たちが手作りの凧を揚げているのを見て憧れた」と振り返る。大人になっても、その思いは消えなかった。
戦後、沖縄愛楽園にあった琉球政府立の澄(すむい)小中学校に赴任。保護者や子どもからの要望があり、初めて作り方を指導した。
比嘉さんは「マッタクー(四角い凧)は、下の寸法が短く上が長い。揚げるときれいに見える。昔の凧には絵が描かれていなかった。骨組みのシルエットを楽しんでた」と話す。
定年退職後は凧の研究に取り組み、八重山で行われる全国凧揚げ大会にも出場するようになった。「八重山は六角凧などがあるが島ごとにサイズが違う。島同士の交流がなかったからでしょう」と説明。島の人と同じものを作っては面白くないと「立体凧」の考案に没頭するようになった。
揚がった凧の糸を伝って、もう一つの凧が揚がり、上空でぶつかりあって再び手元に戻ってくる仕掛けの「フータン」などに取り組み、2006年には大賞となる「マンタピア賞」を受賞した。このほかにも「箱凧」「回転凧」、樹木の葉に細工した「ビロウ凧」、「ズボン凧」などユニークなオリジナル凧を完成させている。
妻の美智子さんは「自分が気づかないうちに、いろいろな凧を作っている。揚げるとき見に行くけど、やっぱり楽しいです」とうれしそう。
比嘉さんは「作りやすく、見栄えがよく、あまり走らなくても揚がることが大切。子どもは高く揚がっても喜ばない。自分を追いかけてくる凧が好きなんですよ」と笑顔で語った。(玉城学通信員)
沖縄タイムス
76歳が 「沖縄魂学んだ」(OKINAWA)
76歳が空手師範に「沖縄魂学んだ」

「師範になるとは、思ってもいなかった」と練習に明け暮れた日々を振り返りながら上地流独特の攻撃の構えをとる金城敏昌さん
30~40代で取得することが多い空手の師範免許を、県出身で大阪府に住む金城敏昌(びんしょう)さんが76歳で取った。
60歳で上地流空手道に挑戦した金城さん。「挑戦に年齢制限はない。『年だから』と諦めないで」と呼び掛けた。
(國吉聡志)
金城さんは南風原町出身。18歳で大阪に渡り、30歳で石油販売業を始めた。タンクローリーを運転して、近畿地区に販路を拡大。60歳を前に息子に後を継がせて引退することを考え始めた。
ところが「仕事第一だったので、退職後は何をしたらいいのか」と老後に打ち込むものが見つからない。農業や登山に挑戦したが、続かなかった。
そんな中、ひょっこり帰った沖縄で「上地流那覇南修武館」の島袋春吉館長(57)と出会った。「いい機会だから、心技体をもう一度鍛えよう」と軽い気持ちで同館の門をたたいた。
しかし、厳しい練習に老体が言うことを聞かない。突きや蹴りに力が入らず、指導役の有段者に、さじを投げられた。
だが「一挙一動に心が洗われていくようで、これこそ求めていた『生きがい』だ。くじけてなるものか」と、島袋さんに頼み込んで毎日練習後の2時間、マンツーマンで特訓した。
「すぐやめるだろう」と笑っていた島袋さんも日々上達する金城さんを見て真剣に教えるようになった。
2002年に初段を取得。昨年11月には、宜野湾市にある上地流宗家で5段の昇段審査に合格、師範免許を取得した。審査員の1人を務めた島袋さんによると、ほかの審査員から「本当に76歳か」と驚きの声が上がったという。
現在、修武館の大阪支部長として4人の門下生を教える。
今年夏に会社を息子に引き継いだ後は空手に専念する。
「この年でウチナーンチュの魂を学べて幸せ。古里を感じながら余生を送れる」と意気込んでいる。
沖縄タイムス

「師範になるとは、思ってもいなかった」と練習に明け暮れた日々を振り返りながら上地流独特の攻撃の構えをとる金城敏昌さん
30~40代で取得することが多い空手の師範免許を、県出身で大阪府に住む金城敏昌(びんしょう)さんが76歳で取った。
60歳で上地流空手道に挑戦した金城さん。「挑戦に年齢制限はない。『年だから』と諦めないで」と呼び掛けた。
(國吉聡志)
金城さんは南風原町出身。18歳で大阪に渡り、30歳で石油販売業を始めた。タンクローリーを運転して、近畿地区に販路を拡大。60歳を前に息子に後を継がせて引退することを考え始めた。
ところが「仕事第一だったので、退職後は何をしたらいいのか」と老後に打ち込むものが見つからない。農業や登山に挑戦したが、続かなかった。
そんな中、ひょっこり帰った沖縄で「上地流那覇南修武館」の島袋春吉館長(57)と出会った。「いい機会だから、心技体をもう一度鍛えよう」と軽い気持ちで同館の門をたたいた。
しかし、厳しい練習に老体が言うことを聞かない。突きや蹴りに力が入らず、指導役の有段者に、さじを投げられた。
だが「一挙一動に心が洗われていくようで、これこそ求めていた『生きがい』だ。くじけてなるものか」と、島袋さんに頼み込んで毎日練習後の2時間、マンツーマンで特訓した。
「すぐやめるだろう」と笑っていた島袋さんも日々上達する金城さんを見て真剣に教えるようになった。
2002年に初段を取得。昨年11月には、宜野湾市にある上地流宗家で5段の昇段審査に合格、師範免許を取得した。審査員の1人を務めた島袋さんによると、ほかの審査員から「本当に76歳か」と驚きの声が上がったという。
現在、修武館の大阪支部長として4人の門下生を教える。
今年夏に会社を息子に引き継いだ後は空手に専念する。
「この年でウチナーンチュの魂を学べて幸せ。古里を感じながら余生を送れる」と意気込んでいる。
沖縄タイムス
海人料理で地域おこし、食堂計画(糸満・沖縄)
海人料理で地域おこし 玉城さん、糸満に食堂計画 
「沖縄のおいしい魚を発信したい」と力を込める玉城弘康さん
=糸満市
【糸満】
豊見城市に住む玉城弘康さん(34)は、2月中旬に糸満市西崎町にレストラン「糸満漁民食堂」をオープンする。
店は市伝統の「海人(うみんちゅ)文化」をコンセプトに、糸満で取れた新鮮な魚を使用する。看板メニューとして海人が普段食べていた伝統料理「魚汁」を現代風にアレンジして提供する予定だ。玉城さんは「伝統的な『新郷土料理』を提供し、糸満の魚の認知度を高めたい」と意気込んでいる。
実家は市内の魚仲買業者「勝冷凍」。幼いころから手伝いで魚市場に連れて行かれ、魚は身近な存在だった。
大学を卒業後、銀行員を経て、那覇市に居酒屋を構えた。
将来的に糸満に店を出すことを考えていたある日、糸満の海人の歴史を記した本「海の狩人沖縄漁民―糸満ウミンチュの歴史と生活誌」(加藤久子著)を手に取った。
読み進めると、偶然にも市場で魚屋を営んでいた祖母金城芳子さんの名前があった。運命的なものを感じた。もともと、糸満に店を出すことを考えており「やらないといけない」とさらに決意を固くした。
すぐさま、糸満海人工房・資料館の管理をする上原謙さんを訪ね、伝統的な海人の料理を学んだ。
玉城さんは「糸満の海人が好んだ魚汁を市の郷土料理として発信したい。調理や味付けを工夫して、おいしい沖縄の魚を知らしめたい」と力を込めた。
琉球新報

「沖縄のおいしい魚を発信したい」と力を込める玉城弘康さん
=糸満市
【糸満】
豊見城市に住む玉城弘康さん(34)は、2月中旬に糸満市西崎町にレストラン「糸満漁民食堂」をオープンする。
店は市伝統の「海人(うみんちゅ)文化」をコンセプトに、糸満で取れた新鮮な魚を使用する。看板メニューとして海人が普段食べていた伝統料理「魚汁」を現代風にアレンジして提供する予定だ。玉城さんは「伝統的な『新郷土料理』を提供し、糸満の魚の認知度を高めたい」と意気込んでいる。
実家は市内の魚仲買業者「勝冷凍」。幼いころから手伝いで魚市場に連れて行かれ、魚は身近な存在だった。
大学を卒業後、銀行員を経て、那覇市に居酒屋を構えた。
将来的に糸満に店を出すことを考えていたある日、糸満の海人の歴史を記した本「海の狩人沖縄漁民―糸満ウミンチュの歴史と生活誌」(加藤久子著)を手に取った。
読み進めると、偶然にも市場で魚屋を営んでいた祖母金城芳子さんの名前があった。運命的なものを感じた。もともと、糸満に店を出すことを考えており「やらないといけない」とさらに決意を固くした。
すぐさま、糸満海人工房・資料館の管理をする上原謙さんを訪ね、伝統的な海人の料理を学んだ。
玉城さんは「糸満の海人が好んだ魚汁を市の郷土料理として発信したい。調理や味付けを工夫して、おいしい沖縄の魚を知らしめたい」と力を込めた。
琉球新報